『八重山毎日新聞』2007.7.22掲載
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『八重山毎日新聞』連載の「八重山の針路と選択」の
47回(第3部・まちづくり6)では、「竹富島憲章」が話題になっています。
2005年に公民館が実施した「住民アンケート」の結果をもとに
取材班の見解を述べています。
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『八重山毎日新聞』2007.7.21 掲載記事
「竹富公民館 竹富への海底送水で石垣市に感謝状」
1976年に海底送水が実現して以来、石垣島から給水を受けている竹富島の上間穀竹富公民館長と大山副館長が20日午前、市役所を訪れ、大浜長照市長に感謝状を贈呈し、長年の給水に対する島民の感謝の意を伝えた。
同公民館が市に感謝状を贈るのは今回が初めて。6月6日に開いた公民館議会で、石垣市の市制施行60周年を記念し石垣市への感謝状贈呈を全会一致で決議した。
同島へは、76年の海底送水実現後、石垣市と竹富町の間で1日最大500トンの「竹富島への分水協定」を結び、飲料水を供給。現在は、1日約266トン、年間約9万7000トン余を送水している。海底送水を実現するまで同島では、雨水や井戸水を使用。干ばつ時には石垣島や西表島から船で飲料水を運んで急場をしのいだ経緯もある。
感謝状贈呈に当たり上間館長は「76年に海底送水が実現して以来、31年間、石垣市から於茂登の水の供給を受けてきた。市制施行60周年の節目に島の人の感謝の気持ちを表したい。」と述べ、感謝状を贈呈した。
これに対し、大浜市長は「当然のことをしたまで。於茂登の水が竹富島の人々の役に立ててうれしく思う」と感謝した。
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夏休み
子ども達にとって、待ちに待った夏休みがやってきました!
こぼし子ども育成会主催の、
コンドイビーチで行なわれた「子ども夏祭り」は、
そんな島の子供たちへのステキなプレゼントです。
神司が、海の神に子ども達の安全を祈願します。
普段はやんちゃな子ども達も、この時ばかりは本当におとなしい!
父兄の方々は、バーベキュー作りに余念がありません。
今回は竹富中学校バトミントン部が県大会に出場するので、
壮行会も兼ねて行なわれました。
上勢頭芳徳…
豊年祭(プイ)
西塘ばんはじり(西塘大祭)が終わると、
10日後には豊年祭が行なわれます。
豊年祭のことを竹富島においては“プイ”と呼びます。
呼称は八重山の各地域によって異なりますが、
一年間でもっとも喜びに満ち溢れた祭りであることは
地域を問わず同じであったことでしょう。
故…
西塘ばんはじり(西塘大祭)
旧暦6月最初の「みずのえ」に竹富島では「西塘大祭」が行な
われます。
豊年祭の10日前、2日間にわたり取り行なわれるこの祭事には、
神司が西塘御嶽、清明御嶽、幸本御嶽に夜篭りし、お香の火を
絶やさぬようにします。
竹富島の偉人である西塘(にしとう)は、西暦1500年の
“オヤケアカハチ戦争”の際、首里に上ります。
その後、首里王朝内で石工として頭角を現し、
園比屋武御嶽石門(※1)の建立、首里城壁拡張工事に携わる(※2)
など、数々の業績を残し、1524年(※3)に八重山人では初の
竹富大首里大屋子
(現代では“行政長官”の役職でしょうか…。)
として竹富島のカイジ浜に蔵元(役所)を開きます。
その後、蔵元を石垣島に移し1550年(※3)頃に、
石垣島で逝去されます。
西塘の亡骸は竹富島へと戻り、西塘の墓地として
西塘御嶽は建立されました。
島を象徴する言葉である
「かいしくさや うつぐみどぅ まさりょうる」
は西塘が残した言葉と伝えられています。
その後、1846年に大浜屋(現在の大浜荘の祖先)の津良は、
不作の原因は西塘を祀らないからであると島民に呼びかけ、
「西塘ばんはじり」が始まったとされています。
●與那國善三・上勢頭亨共著/『西塘傳』 全国竹富島文化協会編
●西塘さまの詳細についてはゆがふ館HPのこちらをごらんください。
夜篭りの晩、ミーナライシキナライの会は西塘御嶽を訪れ、
久間原御嶽と波利若御嶽の神司と西塘の偉業を語らい、未だも
って解明されない西塘とその時代を偲びました。
(注)
※1 そのひやんうたきいしもん…
時代の証言者
今朝の『琉球新報』「金口木舌」欄に、
島の先輩である、琉球大学名誉教授、
西里喜行氏の高校一年生のころの話がありました。
西里氏は、政治家の瀬長亀次郎氏が、
1956年4月に刑務所から出所した際の
「出獄歓迎大会」の演説において、
6000人もの大衆の前列で
それを聴いていたとのこと。
その内容について
「米軍統治の暗い時代に差し込む
一条の希望の光のような強烈な印象」を受けた、
と証言しています。
西里氏と高校の同期生である、
「美ら島沖縄大使」の重田辰弥氏は、
「西里氏は八重山・竹富島の出身、
官費で京大史学科に進んだ苦学徒。
実は私の高校の同期。
軽佻浮薄な私とは違い
妥協を排する孤高の勉強家だった」
とWebサイトで西里氏を紹介しています。
これらのエピソードから、
高校時代から、すでに意識の高かった、
西里氏の姿を思わずにいられません。
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夏の竹富東港にて
年間40万人の観光客が訪れる竹富島。
しかし、夕方になると、島はゆっくりとした時間
を取り戻します。
暑さも落ち着く18時から日没(20時頃)までは、
島の人とっては憩いの時間です。
ジョギング・サイクリング・犬の散歩・港での釣りなど。
それぞれがのんびりした時間を過ごします。
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『八重山毎日新聞』2007.07.15 掲載記事
『八重山毎日新聞』1面で連載中の
「八重山の針路と選択」の第46回(第3部・まちづくり5)で、
竹富島の景観形成マニュアルについて、とりあげられています。
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台風一過
本日は台風4号の通過中につき定期船全便が欠航です。
そのため、かりゆし館は閉館、
ゆがふ館は午前9時より様子を見ながら開館することになりました。
今後、大型で非常に強い、台風は速い速度で北上する見込み。
十分な警戒を要します。
ところで、以前から「台風」を方言で何というのだろうと
気になっていました。
竹富村事務所の明治37年の記録(「村日記」)には、
月日につづいて、干支、天気、風向き、曜日が記されています。
そのなかでも、天気と風向きについての詳細な記述が際立っていますが、
台風に相当する言葉を見つけることができませんでした。
時期的に台風に相当する記事にも、「天候風波激烈ナリ」とあるばかり。
唯一、明治39年7月25日に「晩方ヨリ益風波烈ナリテ、
殆ト大風吹起ノ模様ナリキ」とあり、
解説者は「大風」を「台風」と意訳しています。
そこで、辻弘氏の『竹富島方言集』(1991年・八島印刷)をめくって、
台風に関する方言を拾ってみました。
すると、台風を「かじふき」といい、
また台風及び低気圧のことを「かじくん」、
台風対策のことを「かじんがい」、
台風時の海鳴りを「いんない」ということがわかりました。
面白いことに、台風のときに飛ぶツバメのことを
「かじくんぬすばたらー」というそうです。
ほかにも台風に関する方言があればご教示くださいませ。
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ミーナライ・シキナライの会
ミーナライ(見習い)・シキナライ(聞習い)しながら、
竹富島のことを学ぶ、有志の会「ミーナライ・シキナライの会」。
毎週火曜日に開催され、今年の6月でちょうど1年。
NPOたきどぅんの職員も積極的に参加しています。
テキストは「竹富島喜宝院蒐集館文書」(『竹富町史第10巻 資料編』、以下『町史』)。
『町史』に収録されている「村日記」を、
仲間といっしょに1年かけて読破しました。
現在は「間切島会ニ関スル書類」(これも『町史』に収録)を
読んでいるところです。
これは、明治時代の竹富島にあった竹富村事務所と八重山島庁・
間切役場との往復文書のつづりが主なるもので、
諸事全般にわたる内容は、当時の生活を伝えるうえで、
貴重な資料です。
これまで読んできた「村日記」や、当時の新聞資料などと
つきあわせながらみていくと、
意外な事実が浮き上がってきたりすることもあります。
事実は小説より奇なり!
7月10日の出席者は8名。
会が始まるまでに、話がはずみ、結局
読んだのは通し番号41、42の書類のみ。
しかし、ユンタクのなかにも学ぶことが多く、
それがミーナライ・シキナライの会の醍醐味にもなっています。
みなさんのご参加もお待ちしております。
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