『八重山毎日新聞』2007.7.29 掲載

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エッセイに短歌を添えた、佐野滋氏の文章も、 『八重山毎日新聞』紙上では、お馴染みとなってきました。 今朝の9面には、随想「竹富島の夏景色」が掲載されています。 夏の日差し、白砂のきらめき、色とりどりの花…を 感じさせる文章にうっとりします。 また11面には、昨日(28日)行われた、竹富町繰り上げ投票についての 記事がありました。 投票率について、6年ぶりに70パーセント台を回復した、 今回の選挙において、竹富町の地域別では、 竹富島がもっとも投票率が高く、88.85パーセントであったことが 報じられています。 …

豊年祭(プイ)

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いよいよ27日・28日は豊年祭です。 27日は各御嶽の氏子が集まり、豊年の御礼と 来年の豊作を祈願する “オンプイ” 28日は神司、公民館執行部が「世願い」を行なう “トゥヌイプイ”です。 神司、公民館執行部及び有志は、豊年祭の道歌を 謡い、神々に感謝の意を表します。 「豊年祭の道歌」は、西塘様が作り皆に指導したと 伝えられています。また、歌詞は口承による伝承につき、 個人により若干異なっている点について、古くから謡い 継がれてきたことを実感させます。 「豊年祭の道歌」 1 たいら どどろしぬ※1   みゆとぅひじゃーぬ※2 うてぃみじ   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   ハリ うりたゆるまぎる   いるどぅまさる ハーリーヌ   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ 2 あさとはちまんぬ   まつだぎょる※3 ぐしく   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   ハリ うりまきゅる ぐとぅに   ばんぞ まかしたぼり   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ 3 いんくくじ うじょうぬ   うにぶときまいや※4   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   ハリ ばんぞ ゆくしすや   みはてぃ うどぅしたぼり   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ 4 まちゅぎたる きゆぬひ   にがゆたる くがにひ   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   ハリ きゆの ゆかるひに   はじりあぎしたぼり   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ 5 うむたこと かなしょうり   にごたすに すなしょうーり   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   はり かずいちくさらん     はまぬ まさご※5 ハーリーヌ   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ 6 ○○うたきぬ※6   かみがなしまいや   ヒーヤ シューラ ジャンナーヨ   はり ばんくくるあらぬ   きむくくる あらぬ   うまもりしたぼーり   うゆるしたぼり ● NPOたきどぅん発行/『竹富島古謡集…

文化庁次長の来島

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文化庁次長 高塩 至氏が竹富島を訪れました! 有志が桟橋に繰り出し、「トンチャーマ」でお出迎えです。 文化庁は、竹富島の町並み保存運動から旧与那国家の修復まで、現在の竹富島の町並みをずっと見守り続けてくれた存在であり、また、島の素晴らしさを認めてくれた恩人でもあります。   現在、文化庁から選定・指定を受けているものは… ●竹富島の種子取 (国重要無形民俗文化財指定 1977年) ●竹富島の町並み (重要伝統的建造物群保存地区選定 1978年) ●西桟橋 (国登録有形文化財指定 2005年) ●なごみの塔 (国登録有形文化財指定 2006年) ●喜宝院蒐集館収集品「竹富島の生活用具842点」 (国登録有形民俗文化財指定 2007年) ●小城盛(クックムイ) (国史跡指定「先島諸島火番盛」 2007年) 高塩氏は、ゆがふ館で“オーリトーリたきどぅん”をご覧いただいたあと、町指定文化財「旧与那国家」「西桟橋」「なごみの塔」などを視察されました。 (TA)…

真栄(マサカイ)

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「真栄節」の主人公である、真栄は実在の人物であり、1701年、大山家の次男として生まれたと伝えられています。 1719年には、分家し小山家を建て小山家の祖となります。分家の際、大山家より国仲原の長山畠一筆を譲り受けますが、当時の人頭税では税を納めるどころか、食べるのもままなりません。 そこで、真栄は思案を巡らせ、一念発起竹富島を離れ、西表島仲間(現在の大富付近)へ渡り大原田の港口を開田し稲作に従事します。 当時は個人が自由に移住や転居ができない時代であり、かつ人頭税が生活に大きくのしかかっていました。 真栄は、税を納めるために荒地を開墾するなどの精神的・身体的に苦痛が伴うことを自らで選び行動しました。この行為から、真栄は島人から称えられ、「真栄節」として今日まで名が残されています。 「真栄節」 1 まりや たきどぅん  (竹富島に生れて)    すだてぃや なかまぬ まさかい  (西表島仲間村で 生活した 真栄)   ウヤキ ヨーヌ 世バ 直レ  (豊カナ 世ニ 直レ) 2 いなきゃぬゆい なぐぬ すみゃんどぅ  (何故 どうしたわけで)   なかま くいおたる  (仲間村に 移住されたのですか)   ウヤキ ヨーヌ 世バ 直レ  (豊カナ 世ニ 直レ) 3 うはらだぬ みなぐちぬ  (大原の田 水口の田が)   ゆやんどぅ   (欲しくて 移住しました)   ウヤキ ヨーヌ 世バ 直レ  (豊カナ 世ニ 直レ) 4 むちぐみぬ しるぐみぬ  (餅米が 白米が)   うり ふしゃんどぅ  (これが 欲しくて移住しました)   ウヤキ ヨーヌ 世バ 直レ    (豊カナ 世ニ 直レ) ● 上勢頭 亨 著/『竹富島誌…

ミーナライ・シキナライの会 7月24日

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7月24日のミーナライ・シキナライの会の出席者は11名。 そのうち二人は、オブザーバーとして、 「素足で感じる竹富島」ツアーに参加された方です。 関心を持ってくださり、ありがとうございました。 読んだ資料は、テキスト(『竹富町史 第10巻資料編 近代1』)収録の、 「間切島会ニ関スル書類」の通し番号43から48まで。 そのなかの47番の資料は、 明治33(1900)年に「西竹富村」を村立てしようというもの。 つまり、竹富島の人々は、由布島にある「原屋」(畑小屋)16軒を、 西表島の野原村に移して、3カ年かけて西竹富村をつくろうというのです。 さて、その結末はいかに。 今後資料を読み進めるのが楽しみです。 …

『八重山毎日新聞』2007.7.26掲載記事

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「こぼし子ども会夏祭り 中体連出場選手を激励」(竹富通信員)  竹富こぼし子ども会(仲村渠昌彰会長)と子ども育成会(内盛正亀会長)は夏休み初日の20日、夏祭りと中体連県大会に出場する選手の壮行会を催した。  30年前の「こぼし読書会」の結成以来の恒例行事。昨年後半には読書会活動で野間読書推進賞を受賞、さらにソニー賞を8年連続受賞するなど全国に誇れる活動を展開しており、今年の中体連でも、バトミントンの個人戦ダブルスでみごと県大会出場を果たした。  このような活動を支えてくれた地域の人たちを招待しての大きな夏祭りとなった。  夕刻にコンドイ浜に保育所20人、小中学生34人と保護者、関係者が集まり、神司が夏休みの安全と健康祈願した。  祈願の後は、夕日を浴びて宝探しやビーチサッカーに興じ、その間に父親たちが和気あいあいとバーベキューづくりに腕をふるった。  日が暮れてからは花火大会、星空観察。そして中体連県大会に出場する前盛翔君と宇根東杜君の壮行会が行われた。  小規模校の宿命で団体戦には参加できなかったが、少ない生徒を先輩や移住してきた経験者がしっかり鍛えたおかげて、今年も県大会に出場することになった。  2人は「相手は強敵と決まったが、ひるむことなく、胸を借りるつもりで頑張ってきます」と抱負を述べ、先輩の激励の言葉や熱いエールが浜辺に広がった。 …

ちょっとした休憩所

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フクギ(福木)オトギリソウ科フクギ属 実は8月~9月頃に黄色く熟します。 材は緻密で白く硬く建築材としても使用されます。 なお、樹皮は黄色の染料として用いられています。 沖縄の島々でみることができる樹木、フクギは防風・防火という重要な役割を担っています。 沿海を航海する折、島々に黒っぽいほど緑の濃いフクギ並木を見ると、集落が近くにあると判断したそうです。 連日厳しい暑さが続く夏の日々では、私たちのちょっとした休憩所の役割も果たしてくれます。 樹齢数百年と云われる写真のフクギ。 少しのんびりと木々の下で休みながら、 遥か昔の竹富島について、 想いを馳せるのはいかがでしょうか。  (TA)…

『読売新聞』2001.1.10掲載記事

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「再生 人間の世紀へ9 宝の島ー真の繁栄「自立」からー」 ~この記事は 全国竹富島文化協会『星砂の島第6号』から抜粋しました。~ 沖縄・八重山諸島にある竹富島。外周約9キロの小さな島だが、星砂の浜に誘われて年間20万人の観光客が訪れる。しかし、石垣島など周辺の島々と違って、本土資本のリゾート施設はどこにもない。  「島の美しさを残すには、自分たちでやるしかない」。地元でエビ養殖会社を経営する上勢頭保(51)は言う。  しかし15年前。  島の面積はほぼ2割が本土のリゾート企業などの手にわたっていた。  赤がわらの家並みを囲む石灰岩の石垣。水牛車が踏みしめる白砂の道。美しい外見をまとうサンゴの島は、農作業には不向きだ。  クワを入れれば岩で刃が折れ、まいた水はすぐ乾く。主要産業だったサトウキビ栽培も1960年台半ば、製糖工場か閉鎖され壊滅した。  72年の沖縄本土復帰が近づくと、本土の業者から「土地を売らないか」と声がかかり始めた。「不毛の土地に値段がつくだけでもありがたい」。1ドル360円の時代に3.3平方メートルが1-3セントで次々と売却された。ブローカーに、産み立ての卵を届け、ヤギ汁をふるまって感謝する家もあった。  町議だった父親は、数少ない開発反対派だった。当時、上勢頭さんは20台半ば。大阪で運送会社を経営していたが、「お前も島を守れ」と呼び戻された。  しかし本土資本の開発には反対でなかった。島に戻ると、クルージングや送迎バスという新しい観光業を始めた。  そのかたわら公民館の仕事を手伝い始めた。公民館は島の自治組織で、賦課金を各戸から取り祭事などを取り仕切る。  若い人がいかに減っているかを実感した。長寿の島と言えば聞こえはいいが、65歳以上が半分以上を占める超高齢社会。「祭事も続けられない。若い連中を呼び戻し、本土に頼らず島が自立しなければ」。気持ちが変わった。  地元が潤う形での発展が必要だ。そのためには土地を買い戻すことが先決だった。全部で1平方キロメートルを超えていた。名古屋の私鉄会社と、福岡の財団法人が大地主だった。    「売って欲しい」  ダイビングを通じて顔見知りだった私鉄の担当部長に切り出すと、部長は「君ならいいよ」と笑った。「買えるはずがない」とふんだ軽口だった。  売値はしめて6億5000万円。金策は難航した。銀行は「担保がない」と、相手にもしてくれなかった。  「御嶽」と呼ばれる祖先の霊を祭ったほこらに通っては、「力を貸してください」と祈り続けた。  そして、奇跡が起きた。86年、那覇に住む知りあいの会社役員に、思い描いていた島の将来像を語り続けた。黙って話を聞いていた役員が言った。  「企業家としての君個人に貸そう」  ぶ厚い壁が崩れた。  司法書士を連れて私鉄本社に乗り込んだ。「買いに来ました」と言うと、担当部長はまた笑った。ところが、小切手や印鑑証明など必要書類を見せると、顔色が変わった。「うそだ」と言って絶句した。しかし、約束は守った。財団の理事長も折れた。帰郷して14年が過ぎていた。  上勢頭さんは思う。「私利私欲を捨て、無の心になれば願いは通じる」  終戦直後の47年の2200人をピークとする人口は、92年の251人で下げ止まった。  昨年には、15年ぶりに300人を超えた。このうち約90人は、Uターン組や、島に魅せられた移住者たちだ。島民と新住民が結婚して、子どもたちも生まれている。今春、島外から子どもを小中学校に受け入れる「星砂の島」留学が始まる。  ただ課題も多い。  この10年で観光客は倍以上も増えたのに、23軒あった民宿は半減した。近隣の島々に近代的なリゾートホテルが次々に建ったからだ。  買い戻した土地の大半は、林になっている。伝統の建築様式を生かしたリゾート施設の青写真はある。建築も従業員も出来る限り地元でまかないたい。だが資金のめどはたたない。  昨年11月末、600年前から続く1年で最大の祭事、種子取祭が開かれた。  「祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り・・・」。父たちが制定した竹富島憲章は「『かしくさや うつぐみどぅまさる』の心で島を生かせ」と続く。「協力すれば返って来るぞ。助け合いの和こそ大切だ」という意味だ。祭りでは、この言葉を歌詞とする踊りが神々となった祖先に奉納された。  「この島を宝の島にしたい」  伝統と暮らしが共存できる宝の島に。 …

照屋林次郎新作三線展

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現在の沖縄音楽の華やぎは、「三線」という楽器を抜きにして語ることはできません。 照屋林次郎氏は、沖縄タイムスの現代の名工シリーズでも絶賛されたほど三線製作者として、高い評価を得ています。 その林次郎氏が、新作の三線を携えて初めての「新作三線展」ツアーを展開。 「やまと―おきなわ―やいま」と銘打ったツアーは、東京、岐阜、沖縄県北中城村、石垣市を経て、竹富島で千秋楽を迎えました。 竹富島は7月23日から25日の3日間、会場は高那旅館です。 林次郎氏は、祖父が琉球古典音楽の重鎮・照屋林山、父が戦後沖縄ポップの草分け的な存在である照屋林助、兄が現在の沖縄音楽ブームを牽引する「りんけんバンド」の照屋林賢、といったすごい音楽環境のなかで育ちました。 会場となる高那旅館には、林次郎氏作の名器に並んで、若かりしころの林助氏の写真が飾られていました。 そこへくつろいだ林次郎氏の姿がみえました。 三線つくりにまつわるお話をうかがいながら、先述したご家族のことなどうかがったところ、いろんなエピソードに話の絶えることがありません。 なかでも、林助氏が八重山の島々をめぐり、歌謡をはじめとする、芸能の数々を求めて旅したことにも話が及びました。もちろん竹富島にも滞在し、取材したとのこと。 この展覧会を通じて、林助氏の竹富島での足跡が少しでもわかればいいなーとふと思いました。 会場には、三線に関心のある方が訪ねてきては、実際に名器にふれてその響きを確かめていました。 …

坊主墓

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私たちNPOたきどぅんの活動において重要なミッションである“遺産の保護”は多岐にわたります。 文化の継承はもちろんのこと、亜熱帯特有の植物の繁殖から遺跡を守ることも重要です。 今回は遺跡のひとつである「坊主墓」周辺の除草作業を行ないました。 「坊主墓」 島北部を南北に縦断するミシャシ道と東桟橋→カイジ浜間の外周道路の交差点から15mほど西へ向かった北側の茂みの中にあります。 NPOでは半年に1回、定期的に除草作業を行なっています。 この「坊主墓」は、お坊様が島に来るのが珍しかった時代、石垣島からお坊様が焼香に来ていたことに由来するそうです。 さらに、伝承によると西塘様の妾の墓とも母の墓とも云われています。 それは… 1 墓の外枠は野面積みではなく切り石を使用している。 2 外枠の切石の質が他の墓と異なる 3 墓中央部に丸い造作物が安置されている。 正面より撮影(北向) 坊主墓について以下のような記述があります。 ~およそ20年前、知人が沖縄本島から私を訪ねて来た。 その女性が言うには、八重山にある尚真王の妻の墓が草に覆われているので清掃をして欲しいと夢の中で頼まれた。 それで、八重山に来たが、墓は見つからず途方に暮れている。墓探しに協力していただきたいとの依頼であった。 私は、尚真王は赤蜂(オヤケアカハチ)の敵であり、八重山に尚真王の奥方の墓があるとは考えられない。 また、そのような話は聞いたこともないと丁重にお断りをした。 それから4年後、私は史蹟名勝担当主事として、県教育庁文化課に勤務した。 そのとき、西塘についての不思議なことを語る人物に出会った。 その人が言うには、西塘は実は竹富島の人ではなく、粟国島出身の母親の子であった。 彼女は、首里城勤めのグスクンチュ(城人)であったが、尚真王の子を身ごもったので島流しになり、竹富島にたどり着いて西塘を産んだと言うことであった。 《中略》 その墓は、八重山産の粟石の布石を積み上げた個人墓であり、西塘の墓とされる西塘御嶽の本体部分と同じ石材、同じ造りであった。 しかも注目すべきは墓石の中央に球形の石が置かれていることであった。~ (寄稿「西塘と尚真王」玉城憲文氏(玉津博克氏の体験談)/全国竹富島文化協会編『星砂の島第6号』特集…