「ねぷた」登場に沸く(八重山毎日新聞記事)

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 今日の八重山毎日新聞には、昨晩行われた 「南北芸能交流の集い―斜里・弘前・竹富、真夏の共演―」 の記事が、弘前扇ねぷたの写真とともに一面に掲載されています。  竹富島の白砂の道に勇壮なねぷたが練り歩き、 大勢のかたがご覧になられています。  主会場となった竹富小中学校の特設ステージでは 各地域の芸能が催され、ねぷたと共に去りゆく8月の 夜を彩りました。  8月も今日が最終日です。  9月に入ると、竹富島では慌ただしい日々が続きます。 (ta)  「南北芸能交流の集い―斜里・弘前・竹富、真夏の共演―」 (主催・同実行委員会)が30日夜、竹富小中学校特設舞台で にぎやかに開催され、県内でも初めて、知床斜里と本場青森県 弘前のねぷたが島内を練り歩いた。  南北芸能交流の集いは、竹富町と北海道斜里町の姉妹町盟約 35周年を記念したもので、互いの芸能を通して理解や交流を 深めるのが目的。  また、斜里町と弘前市は互いに友好都市で、それぞれ過去に も竹富町と芸能交流を行っている。  この日は約1500人が会場に訪れ、主催者あいさつの後、武者 絵が描かれた斜里町の組ねぷたと弘前市の扇ねぷたが 「ヤーヤドー」というかけ声と共に地域を練り歩いた。  特設会場では、八重山の郷土芸能、津軽三味線やねぷたはやし などが披露され、多彩に催される南北の芸能に会場からは 盛んな拍手が送られた。 …

ショーロ(お盆)について(8/18付八重山毎日新聞)

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 18日(月)の八重山毎日新聞には、 8月30日に開催される『ねぷたが竹富島にやってくる』 の詳細や、郡民大会での竹富の活躍が掲載されていますが、  竹富通信員による竹富島のショーロ(お盆)の記事が 掲載されています。 (ta) 女性中心、サングラスなし アンガマが各戸を訪問 竹富島の旧盆  竹富島でも16日の総出作業(スードーリ)まで4日間の旧盆 (ショーロ)を終え、行事の多忙さとは違った日常の忙しさが 戻ってきた。13日には祖先の位牌(いはい)を祭っている家庭 では戸口で迎え火をたいたりして祖先を迎え3日間、毎食と間食 まで付けてもてなし供養した。  石垣、沖縄、本土から帰ってきた人たちが島へ焼香しに来る ため、船便は観光客に加えて竹富出身者も多く見られ、桟橋では 懐かしいあいさつが飛び交っていた。  夜は3日間とも集落ごとにアンガマの一行が依頼された家を 回って踊りを披露し、その家の先祖供養をする。竹富島では地謡 は座敷だが、踊りは仏壇のある2番座の前の砂の庭で行う。  はだしで黒い着物に白い帯を締め、クバかさにほお被りするが、 仮面やサングラスなどは着けない。女性がほとんどなのが特徴で、 近年は男性も子どもも大勢が参加している。  竹富島ではエイサーはもともとなかったが、15年ほど前から青年 たちが始めた。途絶えていた「獅子の棒」も復活させた。  嶺井知葉也ちゃん(小1)は一昨年から参加しているが、今年は 仲村渠昌彰君(中3)と莉沙さん(中2)の兄妹がエイサーデビュー、 民宿ヘルパー等の女性たちと3日間で13軒を回り、元気よく太鼓を 打ち続けた。  なお、集落内外の道路清掃などの総出作業も行われた。 …

豊年祭の季節を終えて(8/11 八重山毎日新聞)

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 今日の八重山毎日新聞には、八重山の豊年祭に関する 上勢頭芳徳 喜宝院蒐集館長の記事が掲載されています。  盛大に行われた竹富島の豊年祭や四カ字、宮良の豊年祭 について触れています。  古くより八重山で執り行われてきた豊年祭。 それぞれの地域、それぞれの人が祭祀に携わる「思い」 を上勢頭芳徳氏の文章から読み取ることができます。 (ta) 豊年祭の季節を終えて (プイ・プーリィ・プール)  毎年旧暦の6月に入ると小暑の節の壬・癸あたりに 八重山の豊年祭が行われるようです。  そんなことで他所の島の祭はなかなか拝見することが 出来ないのですが、今年は幸運にも国立民族学博物館の 研究会が3日間、八重山での現地研修が行われましたので、 研究員の一員として竹富島を案内し、四カ字と宮良は一緒に 拝見することができました。  ミシャクパーシも6キロ離れている竹富と石垣の違いは さることながら、数百メートルの距離しかない四カ字でも 微妙に違っているのですから、それぞれに非常に興味深い ものでした。  金子みすずは「みんな違ってみんな良い」と言いましたが、 「みんな違ってみんな変」と言う民俗学者もいます。それぞれ の住民性の違いが現れてくるのでしょうね。  民俗行事や伝統は時代によって変化していくのは当然です。 いかに美しく変化させていくかが地域の住民性と言えるでしょう。  竹富島についていえば、島の総意として美しい町並みをつくり あげて来ました。その中で伝統的な手仕事や祭りを継承してきま した。その美しい町並みが、最近おかしくなっているのではと 指摘されます。写真が撮れなくなったという声も聞こえます。 言われなくても分っています。何年も調整しているのに経済原理 至上主義におぼれて、島の有り様よりも自身のことを優先する人 が出てきたからです。  祭りの感想を述べようとしているのに、世俗の愚痴になって しまって、神様すみません。お守りいただいてお許しください。 (というプイの道歌が竹富島では歌われます。)  竹富島では芸能の奉納はありませんが、旧暦6月の最初の壬・癸 に「西塘ばんはじり」を行い、次の壬・癸で「プイ」を行います。 1日目は早朝から神司と公民館執行部・長老たちが3か所の村御嶽 を拝礼して解りあげし、御嶽のオンビニンジュと神司はそれぞれの 御嶽でミシャクと御酒をいただき、分かりあげを済ませます。  午後からは公民館執行部と長老たちがプイの道歌を歌いながら 六御嶽を参詣に回ります。各御嶽ではオンビニンジュがドラ太鼓を 打って唱和して迎えます。四カ字とはずいぶん違いますね。  ところでよく、農業をやっていない竹富島で豊年祭・種子取祭 とはおかしいのではないか、ということも言われているようです。 しかし、カマクワを使う農業が衰退したのは復帰後のこと。600年の 歴史と言われる種子取祭の中では一瞬のことです。こんなご時世 ですので、いつまた農業を復活せねばならないかもしれません。  そのためにも神行事としての祭りは、継続していかなければなり ません。それは非農業者である中高生・公務員も一生懸命に豊年祭 に参加している石垣島とて同じことでしょう。  ともあれ竹富島では祭の最中に30分ほど、思いがけない世果報雨 を賜うられました。四カ字でもマイツバ御嶽のアヒャー綱が始まると、 ぱらぱらと濡らすほどの雨でした。その光景はまさしく 1903年(明治36)年1月16日に行われた人頭税廃止を喜ぶ 「新税法実施記念祝賀会」の琉球新報新聞記事、野間慶一の名文を ほうふつさせるものでした。当時の人の気持ちと今も変わらない ものがありますのであえて再録します。  「前略・・・あれ見よ六十近き翁媼等が深き額の皺を無にし藁の 鉢巻にて鐘を叩き手舞いを為すを。又見よ二八か二九の娘か喜色 を眉目に湛え今日を晴れと盛装を擬したる其衣髪に粛々と降り掛か る雨を平気に打ち流し太鼓を打ち囃を掛けて踊るありさまを。 ・・・後略」 竹富町史新聞集成Ⅰより  この時の勝敗決せず綱は見事に結び目より断絶したと言うこと ですが、今年は西の雌綱が勝ちましたので来年の豊作は約束された ことでしょう。  …

富山県相倉地区の少年団竹富島へ

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 本日(10日)の八重山毎日新聞には、 富山県五箇山の相倉少年団の竹富島来島の記事が 掲載されています。  五箇山は、合掌造りの家屋が世界遺産に登録さ れている地域でもあります。  今年は竹富島の子どもたちと交流し、まちなみを 通じた交流が行われています。 (ta) 富山県相倉地区の少年団竹富島へ こぼし子ども会と交流 富山県五箇山の相倉世界遺産財団は子供たちに見聞 を広めさせようと毎年、平小学校6年生を交流団を派遣 しているが、今年も11人のメンバーが6日、竹富島に やって来て、「こぼし子ども会」と交流した。  一行は、ビジターセンターゆがふ館で竹富島について レクチャーを受けたあと、子ども会のメンバー20人と一緒 に食事をし、サイクリングで島内を巡った。  子どもたちのお目当てはコンドイ浜での海水浴。 さんご礁の海の美しさに歓声をあげ、たっぷりと泳いだ後 は砂浜でドッジボール、スイカ割りに興じた。  夜はこぼし文庫で芸能交流会。五箇山地方も芸能の宝庫 と言われている所で、平高校は全国高校総合文化祭の常連校 で八重山勢と競っている。こぼし子ども会は「エイサー」 平小学校は「こきりこ節」と「麦屋節」を出し合って、 終わった後はお互いの楽器を使って交流を深めていた。  すっかり親しくなった子どもたちは7日朝の出発には港に 大勢やって来て、ドラや太鼓、「かりゆしの歌」を歌い、 船が桟橋を離れると次々に飛び込むなど最大級の見送りで 別れを惜しんでいた。 …

「都大路」目指す八重高駅伝部

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 本日(8/5)の八重山毎日新聞には、竹富島で合宿を行った 八重山高等学校駅伝部に関する記事が掲載されています。  八重高駅伝部のハイレベルな練習を体験することで、 レベルを上げ、毎年1月に開催される八重山毎日駅伝大会 での優勝を目指します。  八重山高等学校駅伝部のみなさま、駅伝に情熱を注ぐ 竹富島うつぐみチーム。  都大路と八重山一を目指すよう頑張ってください! (ta)  今年も竹富島で合宿 -「都大路」目指す八重高駅伝部-  「都大路」での全国高校駅伝大会出場を目指す八重山高校駅伝部 が、昨年に引き続き竹富島で13人が参加して1日から3日間の合宿を 行った。  昨年の合宿が好評で成果も挙がったことから、今年も陸協役員の 嶋英忠さんが世話人として受け入れた。  練習コースは1周3.3キロメートルの環状線で、折しも観光 週間で沿道の草刈清掃も行われており、気持ちよく走っていた。  部員たちは暑い最中、みっちりと汗をしぼったあと、夕方には 竹富小中学校「うつぐみチーム・ジュニア」のメンバーを指導しな がら練習に励んだ。  3000メートルトライアルに参加した仲村渠昌彰くん(中3) と新城遼次くん(中2)は「昨年からあこがれの八重高駅伝部と 練習し記録も伸びてきた」とうれしそうに話した。  子どもたちの練習には保護者も記録をとったりして応援し、 「記録も右肩上がりで伸びているので応援のしがいがある」と八重高 の合宿効果に喜んでいる。  1000メートルトライアルでは、5年生の友利海人君が3分36秒 を出し、県の小学生では5位に当たるもので、指導している嶋さんは 「少しづつスピード走法に移っているがよく付いてきている。今日は 八重高との練習で一段と刺激になったようだ」と驚いていた。 …

夏の交通安全県民運動によせて(八重山毎日新聞)

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 今朝(8/3付)の八重山毎日新聞記事には、 與那国光子氏寄稿「夏の交通安全県民運動によせて」 の記事が掲載されています。  有限会社竹富島交通(設立時は竹富島車輌組合) の歴史は、竹富島の観光業の歴史でもあります。 與那国光子氏の交通安全に対する姿勢とともに、 竹富島観光の黎明期を伺える文章でもあります。 (ta) 「変わりゆく竹富」~交通安全で平和な島を目指して~  「皆さん、ようこそ竹富島へお越し下さいまして誠にありがとうございます。さて、この竹富島には、お巡りさんが居ません。島の住民が『お巡りさん』の役目をしてまぁす。私もお巡りさんの代わり、この車でこまわりしていまぁす。」とマイクを通して車を運転しながらダジャレを飛ばし、観光客を楽しませ、バスの名前は光ちゃん号として運転しながら案内を続けて36年になります。  昭和47年沖縄復帰後、トラックの荷台に座イスを作ってお客様に向かい合わせに座ってもらい、名所旧跡で身振り手振りでの説明をしたり、歌ったりしました。このような観光から昭和49年には、沖縄総合事務局より離島振興法による有償運送の許可を得て、竹富島に、普通二種免許で案内できる屋根付のマイクロバス(10人乗り)5台が導入されました。  沖縄海洋博を機に観光客も年々増え、いつかこの島にも大型バスで島めぐりができるのでは・・・と、大型二種免許を取得し、15名乗りのマイクロバスでの案内に代わり、個々の有償運送組合を経て運送事業会社が設立しました。  乗合観光バスや郵便、貨物等の運送業として、30名の社員が交通安全をモットーに日々安全運転をしています。先般、社員や会社に、八重山地区交通安全協会や警察署長より表彰状や感謝状をいただきました。これからも安全運転を第一に努めようと気を引き締めた年でもあります。  会社では毎日、安全チェックを出勤時に行っています。①免許証の確認OK②アルコールチェッカーOK③体調のチェックOK④車のチェックオイル、バッテリー、ファンベルト、ラジエーター液等々OK、エンジンかけ、方向指示器、バックランプ、ブレーキランプ等々-次々と点検し、安全点検OKなら異常なしの無線報告で、シートベルトを着用し出発します。  毎日、当り前に運航前運航後の点検、運航管理、整備管理等、交通事故防止の徹底を組織的に行い、お客さまの安全安心を第一に真心からサービスに努め「来て良かった」「楽しかった」「また来たい!」と喜んで見送れる運転手兼ガイドとして頑張っています。島には水牛車、自転車の観光客も多く、人口わずか350名の小さな島に送迎車も走り廻っていますが、いつも思うのは、竹富島は狭い石垣の垣根の道や見通しの悪いところだらけですので、「飛び出してくるかもしれない」という気持ちを常に持っています。ドライバーとして「死ぬ思い」は避けたいのです。「ひやぁーとする思いは死ぬ思い」を忘れず、人が人を大切にする事故のない安全安心な島を目指します。  これから、飲酒運転を四(シ)ない(ナイ)運動の輪を広げ、①運転者は酒を飲まない②飲んだら運転しない③運転者に酒をすすめない④運転させない。を遵守し、うつぐみの心でみんなが幸福な生活を守るルールを実践しようではありませんか? …

写真集『島の原風景を祝して』(八重山毎日新聞掲載記事)

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 16日の八重山毎日新聞には、竹富島ご出身の 島仲玲子さんによる、大塚勝久氏写真集『島の原風景』 発刊を祝う記事が掲載されています。  沖縄を代表する写真家でもある大塚勝久さんが写真と して残したい『島の原風景』は、一方では、失われつつ ある八重山の『島の原風景』なのでしょう。  写真の素晴らしさの側面に潜んでいる、八重山を襲う 開発の波があることを、ぜひ感じていただきたいと思います。 (ta) 写真集『島の原風景』を祝して 石垣市教育委員長 島仲玲子  大塚勝久先生、写真集第9号の発刊おめでとうございます。 この八重山をこよなく愛し続けて30余年、人生のなかでの テーマ「自然・島の心・祭祀」を中心に、常に本物に迫り撮影 していらっしゃる先生の使命感、情熱、教育愛には敬意を表さ ずにはいられません。自然を友とする様子、島の心の美しさの 味わい方、祈り等が具体的に撮影されているのが印象深いです。  今回も、7月1日楽しみに待っていてネとおっしゃった先生の 写真集を心待ちにしていました。今、この本を手に取って拝見 しています。なんと125枚の写真、自然とのかかわり方、自然 の神秘さ、自然の偉大さについて見事な描写力でつづられて おります。四季折々の風物詩の見事さは安らぎを与え、ただただ 感動ばかりです。  120ページに及ぶ、色鮮やかな島の原風景、蒼穹に浮かぶ 雲の1つ1つは数分間の寿命とか。生まれては消え、消えては 生まれ、目まぐるしく形を変える風景を・・・夏は猛暑の中、 冬は寒風に耐えつつ感性を研ぎ澄まして、しっかりとした観察 力でシャッターを切る技の巧みさと、見事に切り取られた自然の 造形の巧まざる美に思わず感嘆の声をあげてしまいます。  世界有数のサンゴ礁に彩られた八重山の島々は、2007年 8月1日に西表石垣国立公園として命名されました。変化に富ん だ海岸線、エメラルドの海原、紺碧の空、水牛にサトウキビ畑等 1点1点が最高の記録の写真集です。  自然は子供たちからの預かりものとして、きらめく自然の美し さ、豊かさを子供たちの未来へ受け継ごうと念じながら、温故知新 の精神で編集されていることが伝わってきます。  今、環境教育が問われています。高水温などによるサンゴの白化 現象、オニヒトデの大量発生、土地改良などのによる赤土流失、 離島ブームによる乱開発等島の環境が大きく変わろうとしている 昨今、先生の写真集は時宜を得た教材になる本です。自然を愛し、 生命を尊び、美しいものに感動し、神秘さを感じ取る豊かな心を 養う貴重な教材になります。先生は小中高の各学校、図書館へ 寄贈されました。  自然と共に生きることが人間の生活を守ることになるということ を改めて感じさせてくれる写真集です。末永く愛蔵したい、家宝と しても価値ある本です。人生を豊に心楽しく暮らすための大自然を 友とする先生の信念、自然は人間にとって得がたい教師であると 写真を通して熱く語って下さる先生の言霊が胸を打ちます。  個展を全国で34回、米国で6回大好評のうちに開催され、 八重山諸島を中心に沖縄50島の原風景をくまなく取り続ける 大塚先生のますますのご活躍を祈念します。先生の熱いメッセージ をしっかり受けとめ島の心を大切にいたします。 …

移転約束の協定書締結(八重山日報6月29日)

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 本日の八重山日報には、(有)竹富観光センターの 水牛車営業所移設問題で大きな進展があったとの報道が なされています。  竹富島を揺るがす大問題に解決の道筋ができたことを、 心から嬉しく思います。 (ta) …

竹富町戦没者追悼式(八重山毎日新聞記事)

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 本日の八重山毎日新聞には、 昨日竹富島で行われた竹富町戦没者追悼式についての記事が 掲載されています。  毎年6月23日を迎えるたびに、日々の穏やかな生活が いかに貴重であるのかを思い知らされます。 (ta)   戦争の事実と教訓後世に 竹富町戦没者追悼式  第47回竹富町戦没者追悼式が23日午前10時から、 「竹富町出身戦没者慰霊之塔」の前で行われた。  大盛武町長は「家族や友人などの多くの人が亡くなり、大きな悲しみ を与えた沖縄戦から63年たった今でもその傷が癒えることはない。八重 山では戦争マラリアにより、幼い子どもも含め尊い命が失われた。二度 とこのような悲惨な戦争が起きないよう、事実と教訓を後世に正しく伝 えていきたい」と追悼の言葉を述べた。  続いて竹富町中学校(石垣安志校長、児童生徒数35人)が平和への 願いを込めて「月桃の花」を合唱し、生徒を代表して仲村渠昌彰君 (中3)が「この沖縄で恐ろしい戦争あったことを忘れず、平和の時代 に生きる人間として、責任を持って戦争の恐ろしさや悲惨さなどを 伝えていきたい」とあいさつした。  このあと、通事隆一町議会議長や宇根勝末竹富公民館長、 戦没者遺族、一般参列者らが焼香し、戦没者の冥福を祈った。  父親を戦争で亡くした佐加伊ハツさん(94)は「父は戦争にかり出さ れサイパンで戦死した。大切な人が死んでしまう戦争はとてもつらい思 い出。今はかわいい孫たちの笑顔を見ることができて幸せだが、この子 たちが戦争に巻き込まれてしまったらと考えたら、胸が締め付けられる。 二度と戦争は起こしてはならない。」と話した。 …

星砂の島第11号発刊!

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 全国の竹富島ファンが加入する全国竹富島文化協会の 「星砂の島」第11号が発刊されました。  もうすでにお手元に届いている会員の方もおられると思います が、狩俣恵一全国竹富島文化協会編集委員長の巻頭言には、 現在の竹富島に浮上している出来事、また、今後の竹富島の 展望が明快に論ぜられています。  狩俣恵一編集委員長の了解をいただき当ブログに転載します。 竹富島の将来を俯瞰する上で、欠かすことができない意見が 述べられています。  是非ともご一読いただきたいと思います。 (ta) 竹富島観光の行方 ―星野リゾートに向き合うことの重要性― 全国竹富島文化協会編集委員長 狩俣恵一  竹富島では、復帰前の昭和45(1970)年頃から土地が買い占められるようになり、島を守ろうという意識が高まってきた。そして、種子取祭が昭和52(1977)年に国から重要無形民俗文化財に指定され、昭和61(1986)年の竹富島憲章の制定、翌年、いわゆる町並み保存地区の選定。そして、それらが竹富島の進路を決定したといっても過言ではない。というのは、それ以降の竹富島は、土地を守り、歌・芸能・祭りなどの伝統文化および集落の景観を資源として、観光業に取り組んできたからである。  要するに、竹富島は、協同一致の「うつぐみの心」で竹富公民館の自治組織を強固にし、外部資本によるリゾートを拒否することで、島の伝統文化と景観を資源として自力の観光業を営んできたが、重要無形民俗文化財指定30周年、町並み選定20周年を迎えた今日、竹富島には大きな変化の波が押し寄せている。  一つは、「観光業で利益を得ることを第一の目的とした個人業者が、島の内外から出現してきた」ことである。おそらく、このような個人業者は、観光業で利益が得られなくなったとき、竹富島から去るであろう。言い換えるならば、竹富島の観光業は、従来、「島で生活するため」に営んできたが、利益第一の個人業者は、経済行為を遂行する権利意識が強く、島の「うつぐみの心」を軽視し、「伝統文化の継承」と「景観の保全」には鈍感である。竹富島の観光が脚光を浴びるようになったことで、心ある島民の意見を聞かない「利益第一主義の個人業者」が、わずかではあっても竹富島に出現したことは島の将来を危うくしており、不安の種である。  二つには、株式会社星野リゾートが、竹富島のアイヤルに40棟~50棟ほどの赤瓦の家を建てる「竹富島東部宿泊計画」を進めていることである。星野リゾートが竹富島にやってくるという話を聞いただけで、竹富島憲章は破綻したと考える人も多く、島の将来はどうなるだろうと心配する声も聞かれる。星野リゾートも利益第一主義の個人業者と同じく「島で生活するため」だけでなく、利益優先を目的としていることを島の人は知っているからである。しかし、竹富島憲章制定以前に売られた土地が、どのようにして買い戻されたのかという経緯を知っている多くの島の人は、単純にリゾート反対とは言えない現実に直面していることも知っている。お金の面から見るならば、竹富島の土地は、借金で買い戻したが、その返済ができないため再び売られてしまったからである。そのようなことがあって、星野リゾートは、竹富島の上勢頭保さんを共同代表取締役とする「南星観光株式会社」を新たに設立して竹富島の観光事業に参入することになったのである。  これまであまり表面だって語られることはなかったが、昭和30年代、ある会社が竹富島に牧場を作るため、一坪3セント~5セントで土地を買った。それが、竹富島の土地の「まとめ買い」の始まりだったと思われる。今回の出来事で初めて知る人もあったように、反対運動の先頭に文字通り体を張って立たれていたのは、保さんの父である昇さんである。そのお父さんの思いを引き継いだとは言え、竹富島の約三分の一の面積(約60ヘクタール)の買い戻しに至るまでの保さんの苦労は想像に絶するに余りある。それが今回、外国のファンド会社などに売られてしまった。その評価額は、莫大な金額になるという。このようなお金は、竹富島にはない。竹富町にもない。また県や国も出してくれない。したがって、竹富島はリゾートを受け入れざるをえない状況に直面しているのである。このような状況の中、上勢頭保さんは水面下で現状打開を模索し、かつ土地を売らないで観光業を続けることはできないかと考え、白羽の矢を立てたのが星野リゾートである。そして、去る3月18日の「竹富町伝統的建造物群保存地区保存審議会」は、新会社の南星観光株式会社による「竹富島東部宿泊施設計画」を承認したのである。その現実を踏まえた上で、竹富島の今後は、どうあるべきだろうか、考えてみた。  思い起こされることは、先述した「観光業で利益を得ることを第一の目的とした個人業者が、島の内外から出現してきた」という問題である。スケールの大きさは異なるが、竹富島の「利益第一の個人業者」も、星野リゾートも「観光業で利益を得ることを第一の目的」としていることに変わりはない。しかし、利益優先であったとしても、将来もなるべく永く竹富島でリゾートを続けようと考えるならば、利益第一の個人業者も、星野リゾートも、共に「うつぐみの心」「伝統文化」「景観保全」の重要性を理解する必要がある。  幸いにも、星野リゾートは、永続的な竹富島での観光業を希望しており、軽井沢で先祖の土地を百年に亘って守ってきた実績を持つと同時に、次のような経営観念を持った会社である。  ~自然環境が豊かなリゾート地においては、それを資源として活かしながら保全に努めるとともに、施設運営による周辺環境への負荷を限りなくゼロに近づけることが求められています。リゾートの運営を専門分野とする星野リゾートにとって、低環境負荷の運営をする能力は、重要な企業競争力の一つであるのです。~  星野リゾートは、その経営理念のもと第一回エコツーリズム大賞をはじめ、水・エネルギーなど、数々の環境に関する成果をあげた評価の高いリゾート会社である。また、星野リゾートが竹富島憲章の精神を重視し、「土地を売らない」「活かす」を組み合わせた「竹富島土地保有機構」という会社を設立したことは、傾聴に値する。そればかりではない。星野リゾートの集客力は大きく、旅行代理店の影響力は小さい。そのことは、老舗の星野リゾートの経営力を示すと同時に、他のリゾート会社とは一線を劃していると考えているとよい。  リゾート会社のほとんどが、乱開発と時流に乗って儲けようとしてきたが、失敗すると転売することを繰り返してきた。その結果、地域には廃墟と環境破壊だけが残される。そのようなリゾート会社が多い現状において、「リゾートは悪」というイメージがつきまとう。 特に、近年、石垣島では、リゾート会社による乱開発で環境破壊が進み、さまざまな問題が生じている。その要因の一つとして、受け入れ側の自然破壊や景観に対する意識が低く、無条件に近い形でリゾート会社を受け入れてきた対応の拙さをあげることができる。その意味において、竹富島は石垣島の失敗から学ぶべきことが多い。つまり、リゾート会社の経営力・環境への配慮・集客力・地域との共生、等々を検討し、きちんと話し合うことが肝要である。  幸運にも星野リゾートは、私たちの対応次第では、我が竹富島にふさわしいリゾート会社になれる可能性が高い。しかも、これまで竹富島を守ってきた上勢頭保さんを高く評価し、正式な共同経営者としての位置においていることである。しかし、これまでの説明会は、「竹富島東部宿泊施設計画」の理念や骨格の部分であり、細部における話し合いは充分には行われていない。よって、竹富公民館をはじめ、石垣・沖縄・東京の各竹富郷友会は、我が竹富島がこれまで築いてきた「うつぐみの心」「伝統文化」「素晴らしい景観」を背負って、星野リゾートと率直に意見を交換し、星野リゾートと竹富島が、共生できる理想的な道を探る必要があると考える。私は二度、星野リゾート社長の星野佳路さんと、専務の星野究道さんにお会いしたが、幸いにも両氏とも竹富島の住民及び竹富島関係者との話し合いを望んでいる。  また、南西観光社長の上勢頭保さんと私は、竹富中学校時代からの付き合いであり、共に全国竹富島文化協会の設立、遺産管理型NPO法人たきどぅんを設立した仲である。保さんは経済人として、「竹富島を宝の島」にしたいという理想を持ち続けていると同時に、父・昇さんから受け継いだ土地買い戻しに奔走され、竹富島の「うつぐみの心」「伝統文化」の継承にも尽力してきた人物である。よって、竹富公民館は、星野佳路さん・上勢頭保さんと、ぜひともきめ細やかな話し合いをして欲しいものである。そして、その話し合いは、宿泊施設建設の前だけでなく、開業後も継続し共通理解を得ることが重要であり、新会社の「南星観光」及び「竹富島東部宿泊施設」を通して、我が竹富島が誇る「うつぐみの心」を全国へ、そして世界へと発信することを期待する。  蛇足ではあるが、記しておきたい。3月11日、竹富島のアイノタ会館で、「狩俣・家中うつぐみ研究室」は星野さんを招いて私的な勉強会を開いた。テーマは、竹富島東部宿泊施設計画と竹富島の将来についてであった。女性の皆さんと50代以下の男性が中心で40名ほどの皆さんが集まった。一時間ほどの説明の後、一時間半の質疑応答が行われた。  司会をつとめた鳥取大学の家中茂先生は次のような感想を述べていた。竹富島憲章から20年を経た現在、竹富島の町並と観光について大きな岐路に立っている。そのことを竹富島の人々は日々の生活のなかで自らに問いかけている。今回の星野リゾートの登場も、たんにリゾート受け入れの是非といった水準でなく、今後の島の将来を自分たち自身で開いていくひとつの契機として受けとめている。そのことがこの日の勉強会からひしと伝わってきた。いかに島を立てていくのか、そのときいかに竹富らしくあるのか。個々の思惑を超えた、そのような問いかけこそが竹富島をここまで導いてきたのだろう。「うつぐみ」の力とは、時代の転換点において発揮されるこのような島の叡智を指しているのではないかと教わった、と。  先進的な観光論は、旧来のリゾート開発を否定し「着地型観光」へと進んでいる。将来の展望を見据えて、真剣に意見を交換する島の皆さんの姿を見て、私は、竹富島の観光は近い将来「着地型観光」へと進んでいくだろうと確信した。 …