種子取祭第1日目

/
 竹富島のタナドゥイ(種子取祭)は、種子下ろしが祭事の主なテーマですが、豊穣祈願と多彩な芸能の結びつきが大きな特色だといえます。  その日程は、年中行事の節願いの己亥の日から数えて、49日目の戊子の日を種子取の祈願にあて、その前後10日間が祭祀の期間として意識されます。毎年、旧暦9・10月中にめぐりくる甲申の日から甲午の日までを祭祀の期間にあてています。この間祭祀は、いくつもの儀礼を経ながら、祭事の諸準備や芸能の稽古を含めて進行していきます。 特に7日目・8日目の奉納芸能の日は、2日間にわたって70余りの芸能が奉納され、島は華やぎます。  いよいよ今日10月17日、タナドゥイの第1日目を迎えます。 くわしくはこちらをごらんください。 …

ミニ種子取祭

/
島にゆかりのある人は、種子取祭前になると、 気持ちが高揚し、居ても立ってもいられなくなるものです。 先日12日には、種子取祭に向けた、東京竹富郷友会の熱の入った 取り組みを紹介しました。 今朝の『八重山毎日新聞』には、 「竹富島のお年寄りらミニ種子取祭楽しむ」と銘打たれた記事が 掲載されています。 島の先輩方が一足先に「ミニ種子取祭」を行ったとのことです。 「竹富地区のボランティアグループ“ほほえみの会”(高那末子会長)と地域の高齢者が参加する昼食会がこのほど、竹富島コミュニティーセンターで開かれ、30人近くが参加した。  国指定の重要無形民俗文化財“種子取祭”を前に、種子取祭で奉納される古謡を取り入れた“ミニ種子取祭”を行い、一足先に種子取気分を味わった。  昼食後は、インフルエンザについての講話もあり、症状や治療方法などについても説明を受けた。」 …

『八重山毎日新聞』2007.10.14

/
 『八重山毎日新聞』連載の「八重山の針路と選択」の第52回に、 上勢頭芳徳氏がこれまで町並み保存にかかわってきた立場から 寄稿しています。 八重山の針路と選択(52) 第3部まちづくり11                         上勢頭芳徳  この数年、石垣島の変ぼうは傍から見ても、目を覆うほどのものがあります。さすがにこれではと本紙でも特別取材班を設けて、51回の連載がありました。そのうちの10回を竹富島の紹介に当てられたのは、まさに石垣島の現状に対するアンチテーゼとしてのことでしょう。もちろん竹富島とて完全な楽園であるはずはありません。いつもいつも問題を抱えながらも、先人たちはそれを「うつぐみ」と知恵で克服してきました。  シマで生きるには「悪いさたを残したら先祖にも子孫にも申し訳ない」という気持ちが働いたからです。今も島の浮沈にかかわる大きな問題を抱えています。そしういったことを踏まえて、これまで町並み保存かかわってきた立場から、特集で指摘されたことへの補足を述べたいと思います。  きわめて辛口のの報道人だった故・友寄英正さんは「竹富島の町並み保存は沖縄の住民運動の中で、人頭税廃止運動に次ぐ成功例だ」と言ってくれました。  復帰前後に吹き荒れた企業や個人による土地買い占めに、「土地を売らない」という「竹富島憲章」を掲げて立ち向かい、撃退することができました。「土地を売らない」というように、住民の自立的な意思として近代的な土地所有のあり方を否定したのです。これは戦後民主主義を超えた新しいコモンズの思想の萌芽、と言われます。  土地を売るなんて、先祖に対しても子孫に対しても恥ずかしいことは出来ないという思いを明文化しただけなのに、今となってはそんなに大層なことだったのかという思いです。その精神を「町並み保存」という運動に移植し、独自のシマづくりを行ってきて、それが成功していると彼も評価したのでしょう。  赤瓦の家並み、白いサンゴ砂の道、黒いサンゴ石灰岩の石垣積み、なによりもそんな沖縄の原風景といえる集落の中で伝統的な祭り、手仕事が継承されていることが大事なのです。テーマパークや映画のセットではないのですから。  竹富島は国の指定・選定を8つも持っています。指定の年代順に述べますと、「国立公園」「種子取祭」「町並み保存」「伝統的産業品(ミンサー・上布)」「登録有形文化財(なごみの塔・西桟橋)」「登録有形民俗文化財(蒐集館)」「史跡(クースク盛)」というように。全国でも唯一で他に例がありません。こういったことが観光資源となって、今では人口360人ほどの島に、年間42万人もの観光客が訪れるようになりました。  特に町並みの美しさは他に比べようがなく これを「絶対的観光資源」という人もいます。比べようがないということは、競争する必要がないのです。木造だからきちんと修理して、変更する所はもっと良くしていけば年代の重さが光り、先祖への感謝の心が芽生えます。 …

『八重山毎日新聞』2007.10.14記事

/
種子取祭の時期は、星見石といった立石を用い、 天体の動きを観察して定めたり、 アラニシ(ミーニシともいう)という風や、 サシバの到来などの自然現象によって知ることができます。 これらの知らせと同時に、 島にまたうれしい知らせが届きました。 長年のまちなみ保存運動の取り組みとその成果が評価され、 このたび、竹富島まちなみ保存調整委員会が、 地域住宅計画推進協議会より、地域住宅計画賞を受賞しました。 このことについて、今朝の『八重山毎日新聞』に記事が 次のように掲載されています。 「竹富島まちなみ保存調整委員会(上勢頭同子委員長)は、住まいやまちづくりに関する優れた活動を表彰する地域住宅計画推進協議会の地域住宅計画賞を受賞した。  今月4日、富山市内で開かれた“地域住宅計画全国シンポジウム2007富山大会”(同協議会主催)で表彰式が行われた。  同委の上勢頭芳徳・元事務局長が12日午後、町役場で大盛武町長に受賞を報告し、“住民自らが地域を維持管理してきたことが評価されたと思う”と話した。」 …

『八重山毎日新聞』2007.10.12記事

/
今朝の『八重山毎日新聞』には、タナドゥイ(種子取祭)をひかえた、 東京竹富郷友会(富野芳江会長)の様子が、東京通信員の有田静人さんの 報告により、うかがうことができます。 今年は60人余りの奉納団を派遣するとのことで、 その取り組みに情熱を傾けていることが、 文面からひしひしと伝わってきます。 記事によると、23・24日の奉納芸能の日、郷友会のほか、郷土史研究家や 全国竹富島文化協会会員、独協大学の飯島ゼミ学生の皆様など、 大勢の来島がある見込み。                   (YI)    今年も種子取祭へ奉納団   ー東京竹富郷友会が60人余ー  長い歴史を誇る竹富島の一大行事「種子取祭」(国の重要無形文化財)に、今年も大挙参加する、東京竹富郷友会(富野芳江会長)は、23、24の両日催されるタナドゥイ(種子取祭)に60人余の奉納団を派遣する。  派遣は、1975年にさかのぼる。過疎化が進み、最も力を要する幕舎張りや飯初(イイヤチ)作りなどの労働力を補って島の文化を学び、会活動に役立てようと企画したのが始まり、今回で32回目を迎える。  1日現在で郷友の参加申し込みは60人。そのほか全国竹富文化協会員や郷土史研究家ら20人が申し込んでいる。また種子取祭の全容を見聞したいという問い合わせも殺到。2日目の奉納芸能までに130人余が島を訪れる見込みだ。  その労働力は私たちに任せて―と名乗るのが島の文化研究に情熱を注ぐ独協大学国際教学部教授飯島一彦さん(52)の飯島ゼミの学生ら22人。一行は、20日に竹富島入り、男性は幕舎張りや飯初作り。女性は集落内の清掃手伝いなど労働力を提供するほか、祭りの全容を見聞する。  飯島教授は「500年も続く国の重要無形文化財を干ばつや台風などの自然災害、過酷な条件の中で守り、どう継承してきたか、島民の思いと労働力、役割そして“うつぐみの心”を肌で感じてくれれば…」。2度目参加の田辺彩乃さんは「島人が祭りにかけるエネルギーと情熱に触れることができればうれしい」と話す。  富野団長は22日の夜、玻座間村や仲筋村のトゥヌイムトゥ(家元)を表敬訪問するほか舞踊部を訪れ激励する。 …

「前原基男写真展」と「種子取教室」のお知らせ

/
 種子取祭の季節がやってきました。  島では現在、種子取祭を眼前にひかえ、その準備や奉納芸能の練習に余念がありません。  ゆがふ館では、10月1日より「てーどぅんシアター」において、「前原基男写真展」を開催中です。今回は、写真集『ふるさとへの想い 竹富島』の第7章「竹富島の種子取祭」からピックアップし、この時期にふさわしい展示内容になっています。  また、恒例の種子取祭教室を下記のとおり開催いたします。  内容は、種子取祭の映像を見ながら、その概要を理解し、種子取祭の第7日目の晩から夜通し行われるユークイ(世乞い、豊穣を乞い願う)でうたわれる、歌謡を練習します。  島人はもちろん、民宿のヘルパーの皆様、観光客の方々、大勢のご来場をお待ちしております。                     (YI)            記    ■ と き 10月18日(木) 午後8時30分から    ■ ところ ゆがふ館てーどぅんシアター    ■ 講 師 阿佐伊孫良氏 …

今朝の『琉球新報』「落ち穂」欄に注目。

/
今朝の『琉球新報』「落ち穂」欄に、 福田由美子さんが「竹富島」というタイトルの エッセイを寄せています。 竹富島のまちなみや、 竹富島で生まれた民謡「安里屋ユンタ」に触れながら、 竹富島を紹介しています。 福田さんは、 「今日も竹富島では三線の音色に合わせ、 水牛がのんびりと島を案内していることでしょう。 心なごむ島です。」と結んでいます。 民謡の主人公クヤマに自分を重ね、 島の歴史におもいを馳せた文章は、 ほのぼのとした気持ちになりました。 きっと読者も心なごんだことでしょう。 しかいと みーふぁいゆ。 (誠にありがとうございました。)               (YI) …

次へのステップ

/
 去る9月26日にNPOたきどぅん理事と職員が集い、 PMJプロジェクト進捗状況の確認、その他の事項に ついて意見交換がなされました。    今回の会議で最も関心を集めたのはPMJプロジェクト のひとつである、白川郷への“先進地視察”です。  世界遺産に登録されている白川郷がどのように遺産を 管理・保護し、活用しているかの報告が理事及び職員から なされました。  遺産を管理するための財源の確保、財団法人の設立や、 住民及び観光客のためのインフラ整備(2005年の入込客数 は約144万人です!)など、様々な工夫がなされていること を認識しました。大変驚かされたのは、合掌家屋の藁葺きは 1件につき3,000万円も費用がかかること。遺産の維持には 莫大な資金と労力(藁葺き作業は1日500人を要するそうです。) を費やすのですね。勿論、それらを手配するのも容易なこと ではありません。  このようなまちなみ保存の先進地の報告を受けると、NPO たきどぅんとして出来ること。また、竹富公民館と協同して 出来ること。また竹富島でしか出来ないことをじっくりと考 える良い機会となりました。  また、議題の一つである“体験入学(民泊)”について は各理事が興味を持って聞き入っていました。  現在、沖縄本島で行なわれている修学旅行生の体験学習 で、各家庭に1~2泊してもらい、それぞれの仕事を手伝う という新しい観光事業です。  竹富島では牧場やクミスクチンの栽培、石垣積みなど、 観光業とは異なる事業もあり、さらには御嶽や史跡の掃除 などの細かい仕事もあります。  10月に入るとタナドゥイの準備が本格的に始まります。 こうしたなか、“次のステップ”へ進む良い会議となりました。 (TA) …

宇根東杜くん、少年の主張八重山地区大会で優秀賞!

/
竹富中学校3年生の宇根東杜くんが、 第22回少年の主張八重山地区大会にて 優秀賞を受賞しました。 おめでとう! タイトルは「生きる自信貯蓄中」! 内容については、2007年9月23日の『八重山毎日新聞』に掲載されています。 そこから竹富島の中学生の日々を垣間見ることができます。 つまり、人口の少ないなか、中学生一人一人にもスクブン(役割)があり、 それぞれがその責任を果しながら、島の行事や学校行事を、 運営しているというのです。 東杜くんは、それらひとつひとつの関わりを見つめ直し、 将来生きていく力に換えていくことを決意しています。      (YI) 生きる自信貯蓄中(竹富中学校3年 宇根東杜)  この4月、1人の転校生が僕たちの仲間入りをしました。 中学3年生で?受験もあるのに…それに都会からこんな田舎へ…そして、親元を離れてまで…僕は不思議に思っていました。  彼女はすぐに学校にも慣れ、みんなと親しく過ごすようになり、いろいろな行事にも生き生きと参加し、中学生7人全員で1学期を充実させてきました。  そんなある日、何げない会話から知った彼女の転校の理由は僕にとって驚きそのものでした。  「自分に自信が持てるようになりたいから」と言うのです。彼女は、竹富島を取材した父親に竹富島で暮らすことを薦められたそうです。「多くのことを学べるよ」と。  小学校のころはあまり心を動かされなかったものの、中学生になってただ何となく流されていく生活に疑問と焦りを感じ、中学3年での転校を決心したとのことでした。  「え?何それ?何を学ぶのこの島で。自信を持つって何だ?」僕はわけがわからず混乱していました。  この島で学べる多くのことって何だろう。この島にいる僕たちはそれを学んでいるのか。僕たちの毎日はとても平凡で普通なのになあ。  学校は小中合わせて34人、クラス替えもなく何をするのもずっと一緒。上下関係もあまりなく、言葉遣いも荒いし、うるさい。お互い刺激も少なく何となくなれあいで過ごしている。人数が少ない分、役割や仕事はめちゃくちゃ多い。スーパーもコンビニもない。  どうも僕に浮かんでくるのは愚痴に近いものばかりです。それを言うと、彼女から「みんな仲良しってことさ。それににぎやかで楽しいんじゃない。行事もみんな目立っているし」  「へぇーなるほどねぇ」そんなふうに考えるとちがう部分が見えてきました。  赤瓦の家に白砂の道。竹富島憲章や町並み保存で守られている夢のような島。人口も少なくほんとにみんなで協力しないと行事は成り立ちません。一人一人が大きな役割を担い、それぞれの責任を果たしています。それは他の大都市に比べると比較にならないほどの重さです。  学校でも同様です。授業のほかに行事がたくさんあります。楽しいものやきついもの。真夏の運動会、中学生リーダーとして小学1年生から全員をまとめ放課後の自主練習をこなしました。校内清掃も草との競争です。怠けることは許されません。  全員で部活動に励み、中体連にはバドミントン競技に参加。子ども会ではこぼし文庫活動。定期的な文化財の清掃、郷友会行事参加等数多くありました。  それらを僕は、何となくやっていました。「やらされていた」ともいえるし、先輩たちもみんなやってきたからやるのは当然だ。というのでやってきた気がします。特に意識することは全くありませんでした。  でも、それらを彼女は「むこうじゃありえないよ」とびっくりします。  生徒会活動や行事の集会進行も全員輪番制。司会、あいさつ、裏方とかかわります。いやだなどそれこそありえません。そんな普通のことが多くを学んでいることなんだとこの夏僕は気がついたのです。そうすると、これまでやってきたことがちょっと得意な気分になってきました。  これからも日本一忙しいといわれる僕たちを、学校で地域でたくさんの活動が待っています。  シュノーケリング体験、9月末に東京で行われるサンゴシンポジウム参加、島をあげての種子取祭と次々にやってきます。「むこうじゃありえない」行事に彼女がどう感動するのか楽しみです。そして僕自身も、新鮮な発見ができるようで、自分自身に期待しています。  毎日の生活を見つめ直し、ただ流されるだけでなく、自分がかかわっていることの意味、それが僕たちにどんな力になるのかを考えることで多くの学びができると思います。  そして、それは将来自信をもって生きていく自分を作るものとなるでしょう。  いつも前向きに、小さな感動と小さな喜びを大きな未来へつなげていきたいです。 …

芋掘狂言の背景

/
行事が目白押しの毎日。 結願祭も無事に終えることができました。 今年の結願祭恒例「芋掘狂言」も、 出演者のアドリブも効いて 味わい深い演技を見せてくれました。 ここで「芋掘狂言」の背景を、イモに注目しながら、 少し考えてみたいと思います。 まずは次のセリフから。   昔やりゃどぅ芋ぬ数んいしょーたる。   此ぬ三品どぅあったっちょう。   あーぱー芋、赤ぐるぐわー、白ぐるぐわーてぃどぅ   此ぬ三品どぅあったっちょう、   今や世ぬ変るた芋ぬ品ん   やーさありどぅんなてぃやー。   よう、此ぬ畝や   よぎむらさき、農林1号、南国、沖縄1号   めーひんやーさあすんが覚るぬ。 このセリフから、昔3種類しかなかった芋の品種が、 時代を経て随分増え、今では品種も 「よぎむせさき」「農林1号」「南国」「沖縄1号」のほか、 「めーひんやーさあすんが覚るぬ(もっとたくさんあるが覚えられない)」ほどになったといいます。 また、品種名から外来のものが島に入ってきたことが想像できますが、 その由来のひとつにとして、次の喜舎場永?氏が記録したものも 参考になるでしょうか(『八重山民俗誌 上巻』)。 (YI) 「往古、支那の山中で、菊の葉に文字が書かれたのが 川上から流れて来るので、川下の者がこれを取り、不思議に思い、 川上に誰かが居る。誰だろうと思い尋ね探したところ、 『ハンチン王』という古老が居られて『イモ』を食しておられたという。 そこで其の種子を頂いて来て植えたところ、 其の後如何なる水害の時でも災害時にでも餓死することがなかったとの 古老の伝えである」 この話は、イモの由来を支那に求めています。 ここに「ハンチン王」が現れるのは、たいへん心がひかれます。 というのは、「はんつ王(ぼう)・千人(しんにん)草(そー)ぬ 願(にが)い立(た)てぃおーたる九月(くがち)九日(くにち) 菊(きく)酒(さき)ぬ喜(ゆるく)びぬ願(にが)い」という 「九日願い」の願口の冒頭から、「九日願い」を立願したのが 「はんつ王」すなわち「ハンチン王」だというからです。 では「ハンチン王」とは、いったい何者なのでしょうか。 ちなみに、ハンチンとは、サツマイモのこと。 八重山の古文献にサツマイモは「はんすいも」「はんつ芋」と いうかたちで頻出します。 つまり、「ハンチン王」とは「イモの王様」ということでしょうか。 宮良賢貞氏は、「あっこん考」(『八重山芸能と民俗』収録)のなかで、 八重山におけるサツマイモの起源を物語る、二つの史料を紹介しています。 ひとつは「慶来慶田城由来記」で、もうひとつは「大史姓系図原文」。 イモの伝播を考えるうえで、両者はともに見逃せません。 前者は「むかしは稲ばかり作って、上納米ならびに余米も ゆったりとしていたが、康煕年間(1662~1722)の初め頃、 はんついも(サツマイモ)を沖縄から持ち下り、石垣島の村々に作り、 種子を広く作らせた。 麦・粟・真黍・大豆・小豆の類も、その時分から次第に沖縄から招来して、 諸村に手広く栽培された。 サツマイモは石垣島から持ってきて、舟浮村の桃原野に作り始め、 それから種子をうけて手広く栽培するようになったという伝えがある」(『石垣市史叢書1』参照)とのこと。 後者は、波照間高康が石垣島にイモを伝えたことを物語る史料。 これによると、波照間翁は、公務のため王府へ出張を命ぜられたましたが、 帰途台風にあい唐国の鎮海に漂着しました。 波照間翁は鎮海から黄はんつ芋の種子を持ち帰り、 一部は垣花の畑に植え、残りは八重山へ持ち帰ったといいます。 「波照間高康翁頌徳碑」は、1947年10月22日に建立されました (喜舎場永?「碑文集」『八重山民俗誌』参照)。 旧暦9月9日のイモ祭りとの関わりに配慮して、 碑の建立の日を旧暦9月9日にあてていることも、 看過できません。 当時、「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、 現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。 ところで、タナドゥイ(種子取祭)で演じられる 玻座間村の狂言「鍛冶工狂言」では、 登場人物は次のようにうたいながら退場します。   粟ゆ作らば官ぬ為      (粟を作るのは官<年貢>のため)   はんちゆみぎらば胴ゆぬ為  (芋を実らすのは自分のため)   願いみぎらしうたらみす   (願って実らせみんなの為にしよう) 粟は年貢として納めるもので、芋は庶民の食料だということです。 この歌は、人頭税時代の社会を風刺すると同時に、 イモが島人の常食であることを物語っています。 結願祭の「芋掘狂言」から、イモについて思いをはせてみました。 このほか、科学的、また民俗学、歴史学的立場から、 八重山地域へのイモの伝播について情報をお持ちの方、 ご教示くだされば幸いです。 …