『読売新聞』2001.1.10掲載記事

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「再生 人間の世紀へ9 宝の島ー真の繁栄「自立」からー」 ~この記事は 全国竹富島文化協会『星砂の島第6号』から抜粋しました。~ 沖縄・八重山諸島にある竹富島。外周約9キロの小さな島だが、星砂の浜に誘われて年間20万人の観光客が訪れる。しかし、石垣島など周辺の島々と違って、本土資本のリゾート施設はどこにもない。  「島の美しさを残すには、自分たちでやるしかない」。地元でエビ養殖会社を経営する上勢頭保(51)は言う。  しかし15年前。  島の面積はほぼ2割が本土のリゾート企業などの手にわたっていた。  赤がわらの家並みを囲む石灰岩の石垣。水牛車が踏みしめる白砂の道。美しい外見をまとうサンゴの島は、農作業には不向きだ。  クワを入れれば岩で刃が折れ、まいた水はすぐ乾く。主要産業だったサトウキビ栽培も1960年台半ば、製糖工場か閉鎖され壊滅した。  72年の沖縄本土復帰が近づくと、本土の業者から「土地を売らないか」と声がかかり始めた。「不毛の土地に値段がつくだけでもありがたい」。1ドル360円の時代に3.3平方メートルが1-3セントで次々と売却された。ブローカーに、産み立ての卵を届け、ヤギ汁をふるまって感謝する家もあった。  町議だった父親は、数少ない開発反対派だった。当時、上勢頭さんは20台半ば。大阪で運送会社を経営していたが、「お前も島を守れ」と呼び戻された。  しかし本土資本の開発には反対でなかった。島に戻ると、クルージングや送迎バスという新しい観光業を始めた。  そのかたわら公民館の仕事を手伝い始めた。公民館は島の自治組織で、賦課金を各戸から取り祭事などを取り仕切る。  若い人がいかに減っているかを実感した。長寿の島と言えば聞こえはいいが、65歳以上が半分以上を占める超高齢社会。「祭事も続けられない。若い連中を呼び戻し、本土に頼らず島が自立しなければ」。気持ちが変わった。  地元が潤う形での発展が必要だ。そのためには土地を買い戻すことが先決だった。全部で1平方キロメートルを超えていた。名古屋の私鉄会社と、福岡の財団法人が大地主だった。    「売って欲しい」  ダイビングを通じて顔見知りだった私鉄の担当部長に切り出すと、部長は「君ならいいよ」と笑った。「買えるはずがない」とふんだ軽口だった。  売値はしめて6億5000万円。金策は難航した。銀行は「担保がない」と、相手にもしてくれなかった。  「御嶽」と呼ばれる祖先の霊を祭ったほこらに通っては、「力を貸してください」と祈り続けた。  そして、奇跡が起きた。86年、那覇に住む知りあいの会社役員に、思い描いていた島の将来像を語り続けた。黙って話を聞いていた役員が言った。  「企業家としての君個人に貸そう」  ぶ厚い壁が崩れた。  司法書士を連れて私鉄本社に乗り込んだ。「買いに来ました」と言うと、担当部長はまた笑った。ところが、小切手や印鑑証明など必要書類を見せると、顔色が変わった。「うそだ」と言って絶句した。しかし、約束は守った。財団の理事長も折れた。帰郷して14年が過ぎていた。  上勢頭さんは思う。「私利私欲を捨て、無の心になれば願いは通じる」  終戦直後の47年の2200人をピークとする人口は、92年の251人で下げ止まった。  昨年には、15年ぶりに300人を超えた。このうち約90人は、Uターン組や、島に魅せられた移住者たちだ。島民と新住民が結婚して、子どもたちも生まれている。今春、島外から子どもを小中学校に受け入れる「星砂の島」留学が始まる。  ただ課題も多い。  この10年で観光客は倍以上も増えたのに、23軒あった民宿は半減した。近隣の島々に近代的なリゾートホテルが次々に建ったからだ。  買い戻した土地の大半は、林になっている。伝統の建築様式を生かしたリゾート施設の青写真はある。建築も従業員も出来る限り地元でまかないたい。だが資金のめどはたたない。  昨年11月末、600年前から続く1年で最大の祭事、種子取祭が開かれた。  「祖先から受け継いだ伝統文化と美しい自然環境を誇り・・・」。父たちが制定した竹富島憲章は「『かしくさや うつぐみどぅまさる』の心で島を生かせ」と続く。「協力すれば返って来るぞ。助け合いの和こそ大切だ」という意味だ。祭りでは、この言葉を歌詞とする踊りが神々となった祖先に奉納された。  「この島を宝の島にしたい」  伝統と暮らしが共存できる宝の島に。 …

『八重山毎日新聞』2007.7.22掲載

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『八重山毎日新聞』連載の「八重山の針路と選択」の 47回(第3部・まちづくり6)では、「竹富島憲章」が話題になっています。 2005年に公民館が実施した「住民アンケート」の結果をもとに 取材班の見解を述べています。 …

『八重山毎日新聞』2007.7.21 掲載記事

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「竹富公民館 竹富への海底送水で石垣市に感謝状」  1976年に海底送水が実現して以来、石垣島から給水を受けている竹富島の上間穀竹富公民館長と大山副館長が20日午前、市役所を訪れ、大浜長照市長に感謝状を贈呈し、長年の給水に対する島民の感謝の意を伝えた。  同公民館が市に感謝状を贈るのは今回が初めて。6月6日に開いた公民館議会で、石垣市の市制施行60周年を記念し石垣市への感謝状贈呈を全会一致で決議した。  同島へは、76年の海底送水実現後、石垣市と竹富町の間で1日最大500トンの「竹富島への分水協定」を結び、飲料水を供給。現在は、1日約266トン、年間約9万7000トン余を送水している。海底送水を実現するまで同島では、雨水や井戸水を使用。干ばつ時には石垣島や西表島から船で飲料水を運んで急場をしのいだ経緯もある。  感謝状贈呈に当たり上間館長は「76年に海底送水が実現して以来、31年間、石垣市から於茂登の水の供給を受けてきた。市制施行60周年の節目に島の人の感謝の気持ちを表したい。」と述べ、感謝状を贈呈した。  これに対し、大浜市長は「当然のことをしたまで。於茂登の水が竹富島の人々の役に立ててうれしく思う」と感謝した。 …

時代の証言者

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今朝の『琉球新報』「金口木舌」欄に、 島の先輩である、琉球大学名誉教授、 西里喜行氏の高校一年生のころの話がありました。 西里氏は、政治家の瀬長亀次郎氏が、 1956年4月に刑務所から出所した際の 「出獄歓迎大会」の演説において、 6000人もの大衆の前列で それを聴いていたとのこと。 その内容について 「米軍統治の暗い時代に差し込む 一条の希望の光のような強烈な印象」を受けた、 と証言しています。 西里氏と高校の同期生である、 「美ら島沖縄大使」の重田辰弥氏は、 「西里氏は八重山・竹富島の出身、 官費で京大史学科に進んだ苦学徒。 実は私の高校の同期。 軽佻浮薄な私とは違い 妥協を排する孤高の勉強家だった」 とWebサイトで西里氏を紹介しています。 これらのエピソードから、 高校時代から、すでに意識の高かった、 西里氏の姿を思わずにいられません。 …

『八重山毎日新聞』2007.07.15 掲載記事

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『八重山毎日新聞』1面で連載中の 「八重山の針路と選択」の第46回(第3部・まちづくり5)で、 竹富島の景観形成マニュアルについて、とりあげられています。 …

ミーナライ・シキナライの会

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ミーナライ(見習い)・シキナライ(聞習い)しながら、 竹富島のことを学ぶ、有志の会「ミーナライ・シキナライの会」。 毎週火曜日に開催され、今年の6月でちょうど1年。 NPOたきどぅんの職員も積極的に参加しています。 テキストは「竹富島喜宝院蒐集館文書」(『竹富町史第10巻 資料編』、以下『町史』)。 『町史』に収録されている「村日記」を、 仲間といっしょに1年かけて読破しました。 現在は「間切島会ニ関スル書類」(これも『町史』に収録)を 読んでいるところです。 これは、明治時代の竹富島にあった竹富村事務所と八重山島庁・ 間切役場との往復文書のつづりが主なるもので、 諸事全般にわたる内容は、当時の生活を伝えるうえで、 貴重な資料です。 これまで読んできた「村日記」や、当時の新聞資料などと つきあわせながらみていくと、 意外な事実が浮き上がってきたりすることもあります。 事実は小説より奇なり! 7月10日の出席者は8名。 会が始まるまでに、話がはずみ、結局 読んだのは通し番号41、42の書類のみ。 しかし、ユンタクのなかにも学ぶことが多く、 それがミーナライ・シキナライの会の醍醐味にもなっています。 みなさんのご参加もお待ちしております。 …

『八重山毎日新聞』2007.07.08 掲載記事

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毎週日曜日、『八重山毎日新聞』の第一面に連載中の 「八重山の針路と選択」は、変わりゆく八重山の自然・文化・暮らしに、 取材班がスポットをあてたもので、7月8日で45回を重ね、 現在の八重山を考えるときの話題を提供しています。 第3部の「まちづくり」に入ってからは、まちづくりの先進地として、 毎回竹富島がとりあげられ、現状と課題をレポートしています。 第45回(第3部・まちづくり(4)、7月8日掲載)には、 「家屋は『赤瓦、茶色の板壁』が基準」「保存物件の修理・復元」 「建材の確保」「職人の後継者育成」 「昔ながらの建物保存に費用や建材などで課題も」などの 見出しを拾うことができます。 …

『八重山毎日新聞』2007.07.05 掲載記事

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竹富島ふるさと探訪ツアー、うつぐみの心伝えよう(竹富通信員)  遠く離れてもふるさとの文化や歴史を学んできずなを強めるとともに、二世三世に竹富の「うつぐみの心」を伝えようと、第2回ふるさと探訪ツアーが6月30日と7月1日の両日行われた。  4年前の沖縄竹富郷友会で始まったことが今回再び実現した。東京、沖縄からの郷友ら70人は那覇から洋上学習をしながら石垣港着。石垣の郷友ら73人も合流して、昼前に竹富港に着くと、各種団体の役員らが「お帰りなさい」の横断幕を掲げてトンチャーマで出迎えた。港では、久しぶりに会う郷友同志抱き合って喜ぶ姿も見られた。  昼食後は花城・久間原村跡を阿佐伊孫良さんらの説明を聞きながら探索した。ジャングルみたいなやぶに覆われた500年前の先祖の居住地に分け入って、「よくもこんな石積みの集落をつくったものだ」という声が上がった。集落跡の3御嶽に参拝したあとは、まちなみ館で、竹富島由来の「安里屋ゆんた」「まさかい」「仲筋ぬヌベーマ」などを前本隆一さんが解説した。  夕方はコンドイ浜で、島の住民らも参加して、総勢350人の竹富人大会となった。  開会あいさつで上間穀実行委員長(公民館長)は「天の時、地の利、人の輪という言葉があるが、島の神様もそれを認めて、今それが実現した。住んでいるところは違っても子々孫々に「うつぐみの心」を伝えてほしい」と開会宣言した。  新盛勇・沖縄竹富郷友会長、富野芳江・東京竹富郷友会長、大山剛石垣竹富郷友会長の連帯のあいさつに続いて、竹富小中学校の児童生徒によるエイサーのオンパレード。また、各集落と郷友会が踊りを披露し合った。青年会が「満月太鼓ばやし」を演じるころに満月が上がるなど、絶妙な雰囲気で盛り上がった。  2日目は、本島からの参加者が子どもたちと一緒に玩具づくりと県内第1号の登録有形民俗文化財に指定された蒐集館の資料を見学して、昼の便で帰路についた。  島にとっても郷友会にとっても熱い24時間だったが、ふるさと探訪ツアーのプロデューサーを務めた狩俣恵一沖国大教授は「島に目を向けてと100万言を費やすよりもはるかに効果があった」と話していた。 …

『月刊情報やいま No.170』掲載記事

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NPOたきどぅんの理事のひとり、高那弘子氏が 『月刊情報やいま No.170』(2007年7月1日・南山舎)の22・23頁に、 「高那弘子の粘土人形 郷愁の沖縄」というタイトルで 紹介されています。 粘土人形を作り始めたきっかけや、 創作へのおもい、作品の背景などを語る 弘子氏の言葉からは、 島を誇る気持ちが伝わってきます。 …

『八重山毎日新聞』2007.7.1 掲載記事

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台湾第1号の町並み保存地区澎湖県花宅集落から 竹富島の取り組み視察    (竹富通信員)  台湾で第1号の町並み保存地区となった澎湖県花宅聚落保存協会と古都保存再生文教基金会のメンバー14人が、16日から19日までの3泊4日の視察研修で竹富島を訪れた。 澎湖諸島は台湾海峡にあり100ほどの島からなる人口約9万人の県で、99年には県長自ら竹富島を視察に訪れている。 台湾は急激な経済成長の中で昔からの集落が失われるなどの弊害が出てきたので、日本の 町並み保存運動に学ぼうと、全国町並みゼミに毎年参加するほど熱心な団体もある。  来島した保存会の顔信雄会長と文教基金の研究生たちは、4日間みっちりと半日づつを保存地区の概況、民家の改修事例、観光関連施設、資料館、伝統産業などを視察し、その合間に「文化の保存における住民参加の意義」などの座談会を2回持つほどの熱の入れよう。明確なテーマを持つため、質問が相次ぎ、写真やビデオ、メモに記録していた。  花宅集落も竹富島も人口は約300人と同規模で、同じ亜熱帯の小島ということで視察先にあげたのだろうが、県文化局の紀麗美文化資産課長は自費参加するな意欲を見せた。  6月には国土交通省建築研究所が上海の大学建築科教授ら8人を連れて視察に訪れ、また4月には沖縄建築士協会の照屋寛公氏らが韓国チェジュ道建築士会15人を案内するなど、竹富島の町並みも国際的な評価を受けるようになってきた。 …