『八重山毎日新聞』2007.10.14

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 『八重山毎日新聞』連載の「八重山の針路と選択」の第52回に、 上勢頭芳徳氏がこれまで町並み保存にかかわってきた立場から 寄稿しています。 八重山の針路と選択(52) 第3部まちづくり11                         上勢頭芳徳  この数年、石垣島の変ぼうは傍から見ても、目を覆うほどのものがあります。さすがにこれではと本紙でも特別取材班を設けて、51回の連載がありました。そのうちの10回を竹富島の紹介に当てられたのは、まさに石垣島の現状に対するアンチテーゼとしてのことでしょう。もちろん竹富島とて完全な楽園であるはずはありません。いつもいつも問題を抱えながらも、先人たちはそれを「うつぐみ」と知恵で克服してきました。  シマで生きるには「悪いさたを残したら先祖にも子孫にも申し訳ない」という気持ちが働いたからです。今も島の浮沈にかかわる大きな問題を抱えています。そしういったことを踏まえて、これまで町並み保存かかわってきた立場から、特集で指摘されたことへの補足を述べたいと思います。  きわめて辛口のの報道人だった故・友寄英正さんは「竹富島の町並み保存は沖縄の住民運動の中で、人頭税廃止運動に次ぐ成功例だ」と言ってくれました。  復帰前後に吹き荒れた企業や個人による土地買い占めに、「土地を売らない」という「竹富島憲章」を掲げて立ち向かい、撃退することができました。「土地を売らない」というように、住民の自立的な意思として近代的な土地所有のあり方を否定したのです。これは戦後民主主義を超えた新しいコモンズの思想の萌芽、と言われます。  土地を売るなんて、先祖に対しても子孫に対しても恥ずかしいことは出来ないという思いを明文化しただけなのに、今となってはそんなに大層なことだったのかという思いです。その精神を「町並み保存」という運動に移植し、独自のシマづくりを行ってきて、それが成功していると彼も評価したのでしょう。  赤瓦の家並み、白いサンゴ砂の道、黒いサンゴ石灰岩の石垣積み、なによりもそんな沖縄の原風景といえる集落の中で伝統的な祭り、手仕事が継承されていることが大事なのです。テーマパークや映画のセットではないのですから。  竹富島は国の指定・選定を8つも持っています。指定の年代順に述べますと、「国立公園」「種子取祭」「町並み保存」「伝統的産業品(ミンサー・上布)」「登録有形文化財(なごみの塔・西桟橋)」「登録有形民俗文化財(蒐集館)」「史跡(クースク盛)」というように。全国でも唯一で他に例がありません。こういったことが観光資源となって、今では人口360人ほどの島に、年間42万人もの観光客が訪れるようになりました。  特に町並みの美しさは他に比べようがなく これを「絶対的観光資源」という人もいます。比べようがないということは、競争する必要がないのです。木造だからきちんと修理して、変更する所はもっと良くしていけば年代の重さが光り、先祖への感謝の心が芽生えます。 …

『八重山毎日新聞』2007.10.14記事

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種子取祭の時期は、星見石といった立石を用い、 天体の動きを観察して定めたり、 アラニシ(ミーニシともいう)という風や、 サシバの到来などの自然現象によって知ることができます。 これらの知らせと同時に、 島にまたうれしい知らせが届きました。 長年のまちなみ保存運動の取り組みとその成果が評価され、 このたび、竹富島まちなみ保存調整委員会が、 地域住宅計画推進協議会より、地域住宅計画賞を受賞しました。 このことについて、今朝の『八重山毎日新聞』に記事が 次のように掲載されています。 「竹富島まちなみ保存調整委員会(上勢頭同子委員長)は、住まいやまちづくりに関する優れた活動を表彰する地域住宅計画推進協議会の地域住宅計画賞を受賞した。  今月4日、富山市内で開かれた“地域住宅計画全国シンポジウム2007富山大会”(同協議会主催)で表彰式が行われた。  同委の上勢頭芳徳・元事務局長が12日午後、町役場で大盛武町長に受賞を報告し、“住民自らが地域を維持管理してきたことが評価されたと思う”と話した。」 …

『八重山毎日新聞』2007.10.12記事

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今朝の『八重山毎日新聞』には、タナドゥイ(種子取祭)をひかえた、 東京竹富郷友会(富野芳江会長)の様子が、東京通信員の有田静人さんの 報告により、うかがうことができます。 今年は60人余りの奉納団を派遣するとのことで、 その取り組みに情熱を傾けていることが、 文面からひしひしと伝わってきます。 記事によると、23・24日の奉納芸能の日、郷友会のほか、郷土史研究家や 全国竹富島文化協会会員、独協大学の飯島ゼミ学生の皆様など、 大勢の来島がある見込み。                   (YI)    今年も種子取祭へ奉納団   ー東京竹富郷友会が60人余ー  長い歴史を誇る竹富島の一大行事「種子取祭」(国の重要無形文化財)に、今年も大挙参加する、東京竹富郷友会(富野芳江会長)は、23、24の両日催されるタナドゥイ(種子取祭)に60人余の奉納団を派遣する。  派遣は、1975年にさかのぼる。過疎化が進み、最も力を要する幕舎張りや飯初(イイヤチ)作りなどの労働力を補って島の文化を学び、会活動に役立てようと企画したのが始まり、今回で32回目を迎える。  1日現在で郷友の参加申し込みは60人。そのほか全国竹富文化協会員や郷土史研究家ら20人が申し込んでいる。また種子取祭の全容を見聞したいという問い合わせも殺到。2日目の奉納芸能までに130人余が島を訪れる見込みだ。  その労働力は私たちに任せて―と名乗るのが島の文化研究に情熱を注ぐ独協大学国際教学部教授飯島一彦さん(52)の飯島ゼミの学生ら22人。一行は、20日に竹富島入り、男性は幕舎張りや飯初作り。女性は集落内の清掃手伝いなど労働力を提供するほか、祭りの全容を見聞する。  飯島教授は「500年も続く国の重要無形文化財を干ばつや台風などの自然災害、過酷な条件の中で守り、どう継承してきたか、島民の思いと労働力、役割そして“うつぐみの心”を肌で感じてくれれば…」。2度目参加の田辺彩乃さんは「島人が祭りにかけるエネルギーと情熱に触れることができればうれしい」と話す。  富野団長は22日の夜、玻座間村や仲筋村のトゥヌイムトゥ(家元)を表敬訪問するほか舞踊部を訪れ激励する。 …

「前原基男写真展」と「種子取教室」のお知らせ

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 種子取祭の季節がやってきました。  島では現在、種子取祭を眼前にひかえ、その準備や奉納芸能の練習に余念がありません。  ゆがふ館では、10月1日より「てーどぅんシアター」において、「前原基男写真展」を開催中です。今回は、写真集『ふるさとへの想い 竹富島』の第7章「竹富島の種子取祭」からピックアップし、この時期にふさわしい展示内容になっています。  また、恒例の種子取祭教室を下記のとおり開催いたします。  内容は、種子取祭の映像を見ながら、その概要を理解し、種子取祭の第7日目の晩から夜通し行われるユークイ(世乞い、豊穣を乞い願う)でうたわれる、歌謡を練習します。  島人はもちろん、民宿のヘルパーの皆様、観光客の方々、大勢のご来場をお待ちしております。                     (YI)            記    ■ と き 10月18日(木) 午後8時30分から    ■ ところ ゆがふ館てーどぅんシアター    ■ 講 師 阿佐伊孫良氏 …

今朝の『琉球新報』「落ち穂」欄に注目。

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今朝の『琉球新報』「落ち穂」欄に、 福田由美子さんが「竹富島」というタイトルの エッセイを寄せています。 竹富島のまちなみや、 竹富島で生まれた民謡「安里屋ユンタ」に触れながら、 竹富島を紹介しています。 福田さんは、 「今日も竹富島では三線の音色に合わせ、 水牛がのんびりと島を案内していることでしょう。 心なごむ島です。」と結んでいます。 民謡の主人公クヤマに自分を重ね、 島の歴史におもいを馳せた文章は、 ほのぼのとした気持ちになりました。 きっと読者も心なごんだことでしょう。 しかいと みーふぁいゆ。 (誠にありがとうございました。)               (YI) …

次へのステップ

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 去る9月26日にNPOたきどぅん理事と職員が集い、 PMJプロジェクト進捗状況の確認、その他の事項に ついて意見交換がなされました。    今回の会議で最も関心を集めたのはPMJプロジェクト のひとつである、白川郷への“先進地視察”です。  世界遺産に登録されている白川郷がどのように遺産を 管理・保護し、活用しているかの報告が理事及び職員から なされました。  遺産を管理するための財源の確保、財団法人の設立や、 住民及び観光客のためのインフラ整備(2005年の入込客数 は約144万人です!)など、様々な工夫がなされていること を認識しました。大変驚かされたのは、合掌家屋の藁葺きは 1件につき3,000万円も費用がかかること。遺産の維持には 莫大な資金と労力(藁葺き作業は1日500人を要するそうです。) を費やすのですね。勿論、それらを手配するのも容易なこと ではありません。  このようなまちなみ保存の先進地の報告を受けると、NPO たきどぅんとして出来ること。また、竹富公民館と協同して 出来ること。また竹富島でしか出来ないことをじっくりと考 える良い機会となりました。  また、議題の一つである“体験入学(民泊)”について は各理事が興味を持って聞き入っていました。  現在、沖縄本島で行なわれている修学旅行生の体験学習 で、各家庭に1~2泊してもらい、それぞれの仕事を手伝う という新しい観光事業です。  竹富島では牧場やクミスクチンの栽培、石垣積みなど、 観光業とは異なる事業もあり、さらには御嶽や史跡の掃除 などの細かい仕事もあります。  10月に入るとタナドゥイの準備が本格的に始まります。 こうしたなか、“次のステップ”へ進む良い会議となりました。 (TA) …

宇根東杜くん、少年の主張八重山地区大会で優秀賞!

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竹富中学校3年生の宇根東杜くんが、 第22回少年の主張八重山地区大会にて 優秀賞を受賞しました。 おめでとう! タイトルは「生きる自信貯蓄中」! 内容については、2007年9月23日の『八重山毎日新聞』に掲載されています。 そこから竹富島の中学生の日々を垣間見ることができます。 つまり、人口の少ないなか、中学生一人一人にもスクブン(役割)があり、 それぞれがその責任を果しながら、島の行事や学校行事を、 運営しているというのです。 東杜くんは、それらひとつひとつの関わりを見つめ直し、 将来生きていく力に換えていくことを決意しています。      (YI) 生きる自信貯蓄中(竹富中学校3年 宇根東杜)  この4月、1人の転校生が僕たちの仲間入りをしました。 中学3年生で?受験もあるのに…それに都会からこんな田舎へ…そして、親元を離れてまで…僕は不思議に思っていました。  彼女はすぐに学校にも慣れ、みんなと親しく過ごすようになり、いろいろな行事にも生き生きと参加し、中学生7人全員で1学期を充実させてきました。  そんなある日、何げない会話から知った彼女の転校の理由は僕にとって驚きそのものでした。  「自分に自信が持てるようになりたいから」と言うのです。彼女は、竹富島を取材した父親に竹富島で暮らすことを薦められたそうです。「多くのことを学べるよ」と。  小学校のころはあまり心を動かされなかったものの、中学生になってただ何となく流されていく生活に疑問と焦りを感じ、中学3年での転校を決心したとのことでした。  「え?何それ?何を学ぶのこの島で。自信を持つって何だ?」僕はわけがわからず混乱していました。  この島で学べる多くのことって何だろう。この島にいる僕たちはそれを学んでいるのか。僕たちの毎日はとても平凡で普通なのになあ。  学校は小中合わせて34人、クラス替えもなく何をするのもずっと一緒。上下関係もあまりなく、言葉遣いも荒いし、うるさい。お互い刺激も少なく何となくなれあいで過ごしている。人数が少ない分、役割や仕事はめちゃくちゃ多い。スーパーもコンビニもない。  どうも僕に浮かんでくるのは愚痴に近いものばかりです。それを言うと、彼女から「みんな仲良しってことさ。それににぎやかで楽しいんじゃない。行事もみんな目立っているし」  「へぇーなるほどねぇ」そんなふうに考えるとちがう部分が見えてきました。  赤瓦の家に白砂の道。竹富島憲章や町並み保存で守られている夢のような島。人口も少なくほんとにみんなで協力しないと行事は成り立ちません。一人一人が大きな役割を担い、それぞれの責任を果たしています。それは他の大都市に比べると比較にならないほどの重さです。  学校でも同様です。授業のほかに行事がたくさんあります。楽しいものやきついもの。真夏の運動会、中学生リーダーとして小学1年生から全員をまとめ放課後の自主練習をこなしました。校内清掃も草との競争です。怠けることは許されません。  全員で部活動に励み、中体連にはバドミントン競技に参加。子ども会ではこぼし文庫活動。定期的な文化財の清掃、郷友会行事参加等数多くありました。  それらを僕は、何となくやっていました。「やらされていた」ともいえるし、先輩たちもみんなやってきたからやるのは当然だ。というのでやってきた気がします。特に意識することは全くありませんでした。  でも、それらを彼女は「むこうじゃありえないよ」とびっくりします。  生徒会活動や行事の集会進行も全員輪番制。司会、あいさつ、裏方とかかわります。いやだなどそれこそありえません。そんな普通のことが多くを学んでいることなんだとこの夏僕は気がついたのです。そうすると、これまでやってきたことがちょっと得意な気分になってきました。  これからも日本一忙しいといわれる僕たちを、学校で地域でたくさんの活動が待っています。  シュノーケリング体験、9月末に東京で行われるサンゴシンポジウム参加、島をあげての種子取祭と次々にやってきます。「むこうじゃありえない」行事に彼女がどう感動するのか楽しみです。そして僕自身も、新鮮な発見ができるようで、自分自身に期待しています。  毎日の生活を見つめ直し、ただ流されるだけでなく、自分がかかわっていることの意味、それが僕たちにどんな力になるのかを考えることで多くの学びができると思います。  そして、それは将来自信をもって生きていく自分を作るものとなるでしょう。  いつも前向きに、小さな感動と小さな喜びを大きな未来へつなげていきたいです。 …

芋掘狂言の背景

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行事が目白押しの毎日。 結願祭も無事に終えることができました。 今年の結願祭恒例「芋掘狂言」も、 出演者のアドリブも効いて 味わい深い演技を見せてくれました。 ここで「芋掘狂言」の背景を、イモに注目しながら、 少し考えてみたいと思います。 まずは次のセリフから。   昔やりゃどぅ芋ぬ数んいしょーたる。   此ぬ三品どぅあったっちょう。   あーぱー芋、赤ぐるぐわー、白ぐるぐわーてぃどぅ   此ぬ三品どぅあったっちょう、   今や世ぬ変るた芋ぬ品ん   やーさありどぅんなてぃやー。   よう、此ぬ畝や   よぎむらさき、農林1号、南国、沖縄1号   めーひんやーさあすんが覚るぬ。 このセリフから、昔3種類しかなかった芋の品種が、 時代を経て随分増え、今では品種も 「よぎむせさき」「農林1号」「南国」「沖縄1号」のほか、 「めーひんやーさあすんが覚るぬ(もっとたくさんあるが覚えられない)」ほどになったといいます。 また、品種名から外来のものが島に入ってきたことが想像できますが、 その由来のひとつにとして、次の喜舎場永?氏が記録したものも 参考になるでしょうか(『八重山民俗誌 上巻』)。 (YI) 「往古、支那の山中で、菊の葉に文字が書かれたのが 川上から流れて来るので、川下の者がこれを取り、不思議に思い、 川上に誰かが居る。誰だろうと思い尋ね探したところ、 『ハンチン王』という古老が居られて『イモ』を食しておられたという。 そこで其の種子を頂いて来て植えたところ、 其の後如何なる水害の時でも災害時にでも餓死することがなかったとの 古老の伝えである」 この話は、イモの由来を支那に求めています。 ここに「ハンチン王」が現れるのは、たいへん心がひかれます。 というのは、「はんつ王(ぼう)・千人(しんにん)草(そー)ぬ 願(にが)い立(た)てぃおーたる九月(くがち)九日(くにち) 菊(きく)酒(さき)ぬ喜(ゆるく)びぬ願(にが)い」という 「九日願い」の願口の冒頭から、「九日願い」を立願したのが 「はんつ王」すなわち「ハンチン王」だというからです。 では「ハンチン王」とは、いったい何者なのでしょうか。 ちなみに、ハンチンとは、サツマイモのこと。 八重山の古文献にサツマイモは「はんすいも」「はんつ芋」と いうかたちで頻出します。 つまり、「ハンチン王」とは「イモの王様」ということでしょうか。 宮良賢貞氏は、「あっこん考」(『八重山芸能と民俗』収録)のなかで、 八重山におけるサツマイモの起源を物語る、二つの史料を紹介しています。 ひとつは「慶来慶田城由来記」で、もうひとつは「大史姓系図原文」。 イモの伝播を考えるうえで、両者はともに見逃せません。 前者は「むかしは稲ばかり作って、上納米ならびに余米も ゆったりとしていたが、康煕年間(1662~1722)の初め頃、 はんついも(サツマイモ)を沖縄から持ち下り、石垣島の村々に作り、 種子を広く作らせた。 麦・粟・真黍・大豆・小豆の類も、その時分から次第に沖縄から招来して、 諸村に手広く栽培された。 サツマイモは石垣島から持ってきて、舟浮村の桃原野に作り始め、 それから種子をうけて手広く栽培するようになったという伝えがある」(『石垣市史叢書1』参照)とのこと。 後者は、波照間高康が石垣島にイモを伝えたことを物語る史料。 これによると、波照間翁は、公務のため王府へ出張を命ぜられたましたが、 帰途台風にあい唐国の鎮海に漂着しました。 波照間翁は鎮海から黄はんつ芋の種子を持ち帰り、 一部は垣花の畑に植え、残りは八重山へ持ち帰ったといいます。 「波照間高康翁頌徳碑」は、1947年10月22日に建立されました (喜舎場永?「碑文集」『八重山民俗誌』参照)。 旧暦9月9日のイモ祭りとの関わりに配慮して、 碑の建立の日を旧暦9月9日にあてていることも、 看過できません。 当時、「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、 現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。 ところで、タナドゥイ(種子取祭)で演じられる 玻座間村の狂言「鍛冶工狂言」では、 登場人物は次のようにうたいながら退場します。   粟ゆ作らば官ぬ為      (粟を作るのは官<年貢>のため)   はんちゆみぎらば胴ゆぬ為  (芋を実らすのは自分のため)   願いみぎらしうたらみす   (願って実らせみんなの為にしよう) 粟は年貢として納めるもので、芋は庶民の食料だということです。 この歌は、人頭税時代の社会を風刺すると同時に、 イモが島人の常食であることを物語っています。 結願祭の「芋掘狂言」から、イモについて思いをはせてみました。 このほか、科学的、また民俗学、歴史学的立場から、 八重山地域へのイモの伝播について情報をお持ちの方、 ご教示くだされば幸いです。 …

ミーナライ・シキナライの会

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 平成17年3月、喜宝院蒐集館に所蔵されている文書の一部が、竹富町から『竹富町史 第10巻 資料編 近代1』として刊行された。この書は、明治36年の人頭税廃止前後の竹富島の姿を知るうえ、かけがえのない貴重な資料。早速、NPOたきどぅんの管理する「竹富島ビジターセンターゆがふ館」や港湾ターミナル「かりゆし館」で、販売している。  平成元年にスタートした竹富町史編集委員会は、この19年間に「新聞集成」「近代資料」「戦争体験記録」など、10数冊を刊行し、多くの情報を提供してきた。そして、いよいよ町史の本論ともいうベき島々の歴史にさしかかろうとしたとき、国の三位一体の行財政の改革に迫られることになる。その結果、町史編集室は閉鎖され、編集者は総務課の編集係として他の業務も兼任することになった。しかし、島嶼群からなる島々の歴史はなににも代え難く、行政当局の理解を得、編集室は平成19年4月に復活したという経緯がある。  これまでに刊行された書籍は、竹富町の島々の歩みとその変遷を明らかにしてきた。そのうえ、「近代資料」は、従来日の目を見なかった、自家版などの資料が、翻刻され、さらに意訳と解説を加え、町民の前に姿を現した。諸資料が誰にでも平易に読めるようになったという功績も大きい。  幸い竹富島には、崎山毅の『蟷螂の斧』や上勢頭亨の『竹富島誌』、亀井秀一の『竹富島の歴史と民俗』、大真太郎『竹富島の土俗』、辻弘『竹富島いまむかし』などの貴重な著書がある。また、琉球大学や沖縄国際大学の調査報告書などがあるが、最近の刊行された諸資料を参考にしながら、島の歴史を見つめ直し、再編成する時期が来たと私は考えている。  昨年、竹富島で行われた全国竹富島文化協会の講演会で、「島立て」に関する講話を拝聴した。そのとき、「島立て」とは、決して神代の神話の中にあるだけでなく、現在においても日常の暮らしのなかで営まれるべきことだという。日々、「島立て」の心意気で暮らさなければ、島は本来の魅力を失い、くずれてしまう。そのことに気付かなければならないと。  それには、先人の知恵と工夫と努力を引き継ぐ謙虚さを失わないこと。新しい智恵も必要だがそれに頼り過ぎないこと。新しい時代にかなった地域づくりは、企業ビジネスではなくコミュニティービジネスがふさわしいこと。それこそが地域の活性化をはかる要因である、と言うことであった。  私はまさにその通りだと思った。従来は、竹富町の島々は行政の大きなバックアップを受けつつ、どちらかと言えば、個々人の努力で今日の暮らしを築いてこられたし、それで良かったかもしれない。しかし、現在のように、観光客が増加するだけでなく、IターンUターン組を含めて新住民が増え、われもわれもと手っ取り早く利益を得て生活をしようとすると、以前のような暮らし向きが一様ではなくなり、生活が多様化してくる。以前の自然と溶け合い、島の暮らしがゆったりと流れていた時間が、すっかりと変化してしまった。日々「島立て」の気概が必要となるゆえんである。  このような問題意識を持つNPOたきどぅんの職員を中心に、昨年6月から、自主的な勉強会を始めた。「ミーナライ・シキナライ」の会がそれである。いわば、見て学び・聞いて学ぼうというものである。折しも、刊行されたばかりの喜宝院蒐集館の文書が我々の手元にある。それをちゃんとみんなで読むことから始めようと考えた。  まず明治37年代の「村日記」、その前後の書類、同様の報告綴や人頭税などの書類などを読みながら、古老や先輩を訪ねて話を聞きながら、学んでいくことにした。毎週火曜日の夜、余程のことがない限りは休まないことを原則としている。したがって、例会は34回に及んだ。会場は上勢頭家や阿佐伊家、最近では新装された前与那国家住宅を利用している。  特に明治20年代から30年代は、八重山にとってはもちろんだが、竹富島にとっても未曾有の激動の時代であった。廃藩置県から始まった世変わりは、村番所の廃止と役人の解職、学校や駐在巡査詰所の設立、土地整理と人頭税の廃止、壮丁検査と徴兵、殖産興業の勃興など当時の島人にとっては、予想だにしないことであった。  特に注目したことは、「村日記」である。約二年間にわたって竹富島の日々の出来事が克明に日記として記録されている。我々が無関心にさえなっている天候や風向き、降雨の模様が実に細かい。  また、島人の祭事行事にはほとんど関心を示さないが、明治国家の紀元節や明治節の新祝日が、式次第を含めて細かく記録されており、村頭(役人)の意図を読み取ることができる。それに、壮丁検査や日露戦争の凱旋軍人の帰島の模様、日露戦争の戦勝祝賀会並びにその行列の模様が手にとるように書かれている。  また、役人の往来の多さである。農家経済調査や土地私有権移転台帳の訂正など、あるいは軍事用牛の買い上げ、共有地の件、反布検査、煙草の植え付けなど、連日のように役人の来島がある。人頭税が廃止された直後のことで、いろいろの摩擦があることが想像できる。  特に注目したいことのひとつに、金城永本が村内の状況を視察し、ツカサをともなって御嶽の由来や史跡を調査したことが挙げられる。そのときの調査資料は残っていないだろうか。あれば参考になるのは疑いない。  いちいち書いていけばきりがないが、まだまだ私たちの知らないことの多さに驚いている。一年かけて「村日記」を読み終え、「報告綴り」に入ってはいるが、雑談などでなかなか進めないこともある。会への参加者は延べ400人に達している。なかには、竹富に滞在する文化人(小林文人東京学芸大名誉教授、賀納章雄吹田市立博物館文化財保護係)なども参加して、色々ご教示くださる。  「ミーナライ・シキナライ」の会は、スタートして一年が過ぎたにすぎない。喜宝院文書を読み終えたら、次は「新聞集成」を、さらに、石垣市史の「豊川家文書」の草創期の竹富村資料や「マラリア資料集成」を読んで行くという壮大な計画を立てている。  “町民のための町史”を目指して出発した竹富町史編集委員会。莫大な費用を投じ、すでに十数冊の基礎的な文献を刊行して我々の前に多くの資料を提供している。我々はおおいに生かして行かなければならないと考えている。  多くの町民各位は諸資料を参考にしながら、過去の竹富町の島々の歩みを深く顧みて現在の島々のありようと未来を展望する必要に迫られているのではないだろうか。                       (SA) …

平成19年度種子取祭日程(予定)

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お問い合わせの多い今年の「種子取祭」の今年度の日取り を掲載しますのでご参考下さい。 ~種子取祭の日取り~ (10月17日~10月26日) 本年は、10月21日が「つちのえね」の日にあたり、その日に種を蒔く。 昔から、それより4日前の「きのえさる」の日から種子取祭の日程に入る とされている。 1.10月17日(きのえさる)   トゥルッキと称し、祭の計画手配を行う。   玻座間、仲筋の両地区のホンジャ(長者)の前で   無事に奉納芸能が尽くせるようにとの祈願を行ない、   固い約束を交わします。 2.10月18日、19日、20日   種子取祭の諸準備。踊り、狂言の稽古などを行う。 3.10月21日(つちのえね)   早朝から幕舎張りなど奉納芸能の舞台つくりを行う。   各家では種まき。主婦はイイヤチ(飯初)作り。   公民館役員や神司は、揃って世持御獄、清明御獄、   根原家で種子取祭の願いを行なう。   神司は、その後それぞれの御獄での祈願に向かう。 4.10月22日(つちのとうし)   ンガソウジといって、前日に蒔かれた種がしっかり土につくように、   精進を尽くす日とされる。   家の主がブマー・ブナルンガン(姉や叔母のこと)   を招いてイイヤチ戴みの儀式などもある。   芸能の稽古の総仕上げの日。   午後8時から公民館役員、三郷友会長などがブドゥイドゥンや   狂言ドゥンを訪ねて挨拶し奉納芸能の激励をする。 5.10月23日(かのえとら)   バルヒルの願いの日、奉納余興初日。   午前6時   弥勒奉安殿には公民館役員、有志、三郷友会長などが弥勒興しの祈願。   玻座間御獄では神司たちの祈願。   その後、両者は世持御獄で合流し、バルヒルの願い、   イバン取りの儀式がある。   場所を奉納余興の舞台に移して、干鯛の儀式が行なわれる。   8時前   仲筋村の生盛主事宅へ参詣。   9時頃   世持御獄へもどる。   午前8時頃   全国竹富島文化協会主催の種子取祭に関する講話がまちなみ館   で行われる。   9時半頃   庭の芸能奉納。棒術、太鼓、マミドー、ジッチュ、マサカイ、   祝種子取、腕棒、馬乗者の順で行なわれる。   10時半頃   玻座間村の舞台の奉納芸能が行なわれる。   その順序は、玻座間長者、弥勒、鍛冶工、組頭、世持、世曳狂言など。   別途プログラムあり。曽我の夜襲で初日の芸能は終了する。   17時半頃   イバン戴みの儀式がある。それからユークイ(世乞い)   が始まる。ユークイ(世乞い)は、種子取祭を始めた根原カンドゥ   をまつる根原家から始まり、その後、三地区に別れてユークイが深夜   まで行なわれる。西地区は、玻座間長者家、神司の家、館長宅   それから各家々を回り最後は有田家。   東地区は、宇根家、与那国家、神司の家、主事宅、その後に各家々を   回り最後は宇根家。   仲筋村は、仲筋長者家、神司家、主事宅、その後に各家々を回る。   22時半頃   石垣への臨時便あり。 6.10月24日(かのとう)。   午前5時   三地区に別れていたユークイの一団は、根原家で一つになって   ユークイの留めを行なう。   5時半頃   世持御獄へ。イバンの返上を行ない、ユークイは総て終了。   2日目のムイムイの願い。幸本フシンガーラの願い日とされ、   それを祝して仲筋村のシドゥリャニが奉納される。   その後、前日同様の干鯛の儀式があり、   その後、東の大山主事宅へ参詣にあがる。   9時頃   世持御獄へもどる。9時半頃から、庭の奉納芸能(前日と同じ)がある。   10時半頃   仲筋村の舞台の奉納芸能が終日行なわれる。   別途奉納芸能プログラムがある。   仲筋村長者、弥勒、御主前狂言、種蒔い狂言、天人狂言などがあり、   最後は鬼捕り。   5時半頃、   芸能の奉納はすべて終了。   6時半頃   石垣行臨時船便あり。   執行部を中心に種子取祭首尾方の御礼   (世持御獄、弥勒奉安殿)がある。 7.10月25日(みずのえたつ)。   早朝から幕舎片付け。経理担当は、早朝から経理に当たる。   午前10時頃から竹富公民館にて公民館役員・有志と三郷友会   (石垣・沖縄・東京)との懇談会がある。支払い議会開催。   夜は全国竹富島文化協会の総会が開催される。 8.10月26日(みずのとみ)。   種子取祭ムヌンは現在、省略されている。 …