輝く町並み写真展

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東京杉並区在住の佐野滋さんの写真展について、 昨日お知らせしました。 「輝く町並み写真展」と銘打たれた、この写真展は、 竹富島の町並みが重要伝統的建造物群保存地区に選定されて 20年を記念して開催されました。 佐野さんよりメッセージが寄せられていますので、 ここに紹介いたします。 「現在、日本全国にある79か所の古い町並みが文化庁によって保存地区に選定されています。竹富島の選定20周年を記念して、保存地区のいくつかをここにご紹介します。 人びとの暮らしの温もりを感じとっていただければ幸いです。」 「輝く町並み」写真展は、石垣市立図書館にて11月18日まで。   (YI) …

佐野滋写真展

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前回、竹富島「てぇどぅん かりゆし館」ロビーにて 「織物」をテーマに写真展を開催された佐野滋さん。 今回は「町並み」をテーマに下記のとおり開催されます。 展示内容は、全国の町並みを対象にしていますが、 竹富島に大きくスペースがさかれているようです。 大勢のご来場をお待ちしております。    と き○2007年11月6日~11月18日まで       (毎週月曜日は休館日、午前10時より開館し、        平日は午後7時まで、土・日曜日は5時までです。)    ところ○石垣市立図書館1階展示室                                (YI) …

仲筋村伝統芸能継承の碑

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仲筋村のハニヤ御嶽の境内に 「仲筋村伝統芸能継承の碑」が建立されたのは、 1999(平成11)年9月のことです。 このモニュメントには、16の芸能の演題が銘記されています。 次に、その演目を碑の表記にしたがって、並べてみましょう。 そのとき、便宜的に番号をふることにします。   (1)あぶじ狂言   (2)種子蒔き狂言   (3)天人狂言   (4)はる屋の願い   (5)組踊り父子忠臣   (6)スル掬い狂言   (7)タナドウ屋狂言   (8)いも掘り狂言   (9)たこ捕り狂言   (10)鬼狂言   (11)タノリャー   (12)八人踊り   (13)サングルロ   (14)仲筋のヌベマ   (15)マミドー   (16)腕棒 上の演目のうち、(1)~(10)が狂言で、 (11)~(16)が舞踊です。 原則的に狂言は男性、舞踊は女性が担当することになっています。 このうち、(1)(2)(3)(11)は、タナドゥイ(種子取祭)において 儀礼的な芸能であり、どのような悪天候でも 毎年奉納することになっています。 (1)(2)(3)の狂言は、儀礼的な狂言という意味で、 「リーキョンギン」「リーヌキョンギン」「ジーキョンギン」などと称され タナドゥイにおける、祈りの心が象徴され、奉納芸能の核になっています。 (11)は、粟の種子蒔きの仕草を舞踊化したものですが、 格調高く、優美な所作が印象に残ります。 (2)は、ミシャグキョンギン(神酒狂言)とも呼ばれ、 劇中に「ミシャグヌカザイングチ(神酒の飾口)」が、 セリフのひとつとして唱えられます。 これは農作業の過程を述べ、年貢の上納、そして神との饗宴が 叙述的に展開した、長大なセリフになっています。 また、「ミシャグヌカザイングチ」は、神ツカサが唱える、 願口の内容と表現のうえでも大きく重なり合っていることにも 注目できます。 このことは、神ツカサの唱える願口の内容が、 狂言を通じて、神・島人に確認されるという、 役割も考えられるからです。 こうした考察を深めることによって、 芸能の本質が浮上してくるかと思います。            (YI) …

明日は首里上り!

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明日、11月4日は西塘の遺徳をしのび、 「首里上り」を実現させます。 1500年のオヤケアカハチの乱で、 宮古・八重山地方は琉球王国の統治下に組み込まれました。 そのとき、首里に連れていかれた、西塘は のちに園比屋武御嶽の石門を築き、 ついには国王より竹富大首里大屋子職を授かり、 八重山を統治することになりました。 竹富島では、西塘の遺徳をしのび、西塘御嶽をまつり、 先祖代々尊崇してきました。 このたびは、石垣竹富郷友会の呼びかけで、 竹富島の精神文化の柱である、西塘の功績を再確認し、 郷友のさらなる連携をはかるため、 竹富公民館、沖縄竹富郷友会、全国竹富島文化協会の協力のもと、 首里上りを実現させようということです。 その日程は以下の通りです。 午前09:45 園比屋武御嶽石門前で、歌謡《しきた盆》を斉唱。   10:05 タナドゥイ(種子取祭)の「道唄」を斉唱しながら       園比屋武御嶽石門から木曳門を経て、       首里城下ウナーに入場。   10;15 首里城ウナーで「巻踊り」をうたい踊ります。   10:55 首里上り祈願納め宣言 竹富島の郷友の方はもちろん、ゆかりのある方々は、 明日、首里城に集合です。                   (YI)  …

島外芸能公演の歩み

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本日開催される「竹富島種子取祭の芸能」(浦添市てだこホール)は、 全国竹富島文化協会創立10周年を記念して開催されることに加えて、 沖縄本島で初めてのまとまった大きな芸能公演ということからも、 記念すべき公演と位置付けることができます。 この機会に、今回は島外で開かれた芸能公演を 簡単に簡単に振り返ってみたいと思います。 1977(昭和52)年5月17日、文部大臣によって「竹富島の種子取祭」は、 国の重要無形民俗文化財の第1号として指定を受けました。 その前年の6月には、玻座間村・仲筋村を合わせた70余名で、 芸能団を結成し、国立劇場での公演を成功させました。 この公演を契機にして、 芸能に対する演出や衣裳への関心が高まっていったといいます。 例えば、数多い演目の幕間の時間を短縮するために、 女の子が演題をめくってプログラムを進行させる方法は、 現行のタナドゥイ(種子取祭)でも生かされています。 これによってタナドゥイでも、間断なく芸能を奉納することができ、 好評を得ています。 全国竹富島文化協会の設立されたのが1996(平成8)年ですが、 これをきっかけにして再び国立劇場での公演が 待望されるようになってきました。 1998(平成10)年には玻座間村が九段会館(東京)での公演を遂げ、 その成功が大きな成果となり、 2001(平成13)年の仲筋村の国立劇場公演につながってきたのです。 伝統的な祭事のなかで奉納される芸能と同時に、 島外で開催される芸能公演の歴史をふりかえり、 その意味合いを確認し、位置付ける必要もあるかと思います。 参考文献○『芸能の原風景』(瑞木書房)                                (YI) …

狂言のこと

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「竹富島種子取祭の芸能」公演が いよいよ明日6時30分より、 浦添市てだこホールにて開幕します。 そのなかの演目に、玻座間村の例狂言(呪狂言、地狂言とも表記される) 《鍛冶工》《世曳き》があります。 玻座間村の例狂言には 《鍛冶工》《組頭》《世持》《世曳き》の4題があり、 これらは種子取祭の奉納芸能のなかに 意図的に仕組まれています。 《組頭》では、組の責任者である、組頭の名乗りのあとのセリフに 「この間てぃやぴら、金鍬、揃整ないし」とあります。 これは「この間は鍛冶をして、ヘラ・鍬を整えましたが」といってますが それはとりもなおさず《組頭》が《鍛冶工》を受けてつづくことを 意味しています。 まず《鍛冶工》で鉄の農具を製作し、 つづく《組頭》では作られた鍬で農地を拵えるという、 一連の流れがみてとれます。 その次の《世持》では願口を唱えて種子を蒔き、 《世曳き》では目に見えない「世」、 すなわち豊穣を具体化します。 つまり、《世曳き》とは収穫した作物を、 実際に台車に載せて曳くことによって 「世」を視覚化しているのです。 このようにそれぞれが単独の演目なのですが、 それらが有機的に結びついているところに、 祭祀のなかに組み込まれた 例狂言の意図を読みとることができるのです。          (YI) …

ジッチュ

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「竹富島種子取祭の芸能」公演で演じられる演目のひとつに、 舞踊《ジッチュ》があります。 この舞踊は「エイサ」という小気味良い、囃子声に合わせて足を踏み込み、 小さなクバ笠をクルリとまわす、粋な所作が印象に残ります。 舞踊の小道具には、数種類の笠がありますが、 《ジッチュ》で用いられるものは、小さなクバ笠に村番所の紋章の入った 「ジッチュ笠」と呼ばれるものです。 また、「ジッチュ」とは「10人」という意味だと伝わっていますが、 「シチュシチュ」という、踊り手の掛声から命名されたとも考えられます。 《ジッチュ》が片袖を抜いて踊られことには、 次のような話が伝わっています。 人頭税時代、10人の子供たちを立派に育て上げながら、 毎年の年貢を完納した、ある農民がいました。 彼の模範的な所業は、琉球国王の聞くところとなり、 表彰されることになりました。 そして、夫婦と10人の子供たちは、国王に拝謁することになりました。 しかし、貧しさゆえに、子供たちの10人分の着物を新調することができず、片袖分の布を節約したとのことです。 そのため、舞踊《ジッチュ》は片袖を抜いた着付けになっています。 そして国王に拝謁できた喜びを表現しているといいます。 だから舞踊の構成は、前を向いて国王を畏れ拝み、 後ろを向いて親の顔を見て喜ぶ子どもたちを表現した、 ふたつの型の組み合わせで踊るといわれています。 片袖を脱いで踊ることについて別の説もあります。 それは仕事の都合で遅れた踊り手が、慌てて衣装を着たので 片袖が脱げたままで踊ったところ、 その舞い踊る姿のほうがが粋だというので、 片袖を脱いで踊るようになったという説です。 粋な出で立ちの由来には諸説ありますが、 漁村の若い男女の労働を描いた琉球舞踊《谷茶前》や、 《かせかけ》や能《砧》の労働に従事する女性の着付けが、 《ジッチュ》の役柄と同様に、片袖を抜いた着付けが ひとつの型になっていることにも注目できます。 尚、舞踊《ジッチュ》の軽快な曲は、 沖縄本島の民謡《唐船どーい》の替え歌になっています。 《唐船どーい》は、沖縄の祝宴のフィナーレを飾り、 人々を乱舞させますが、タナドゥイ(種子取祭)に世持御嶽の庭で 《ジッチュ》が踊られるとき、タナドゥイにふさわしい歌詞がのり、 元歌とは異なった味わいを醸します。 参考文献○「ジッチュ」『芸能の原風景(改訂版)』、上勢頭亨「ジッチュ踊り」『竹富島誌 歌謡・芸能篇』参照。                                (YI) …