豊年祭の季節を終えて(8/11 八重山毎日新聞)
今日の八重山毎日新聞には、八重山の豊年祭に関する
上勢頭芳徳 喜宝院蒐集館長の記事が掲載されています。
盛大に行われた竹富島の豊年祭や四カ字、宮良の豊年祭
について触れています。
古くより八重山で執り行われてきた豊年祭。
それぞれの地域、それぞれの人が祭祀に携わる「思い」
を上勢頭芳徳氏の文章から読み取ることができます。
(ta)
豊年祭の季節を終えて
(プイ・プーリィ・プール)
毎年旧暦の6月に入ると小暑の節の壬・癸あたりに
八重山の豊年祭が行われるようです。
そんなことで他所の島の祭はなかなか拝見することが
出来ないのですが、今年は幸運にも国立民族学博物館の
研究会が3日間、八重山での現地研修が行われましたので、
研究員の一員として竹富島を案内し、四カ字と宮良は一緒に
拝見することができました。
ミシャクパーシも6キロ離れている竹富と石垣の違いは
さることながら、数百メートルの距離しかない四カ字でも
微妙に違っているのですから、それぞれに非常に興味深い
ものでした。
金子みすずは「みんな違ってみんな良い」と言いましたが、
「みんな違ってみんな変」と言う民俗学者もいます。それぞれ
の住民性の違いが現れてくるのでしょうね。
民俗行事や伝統は時代によって変化していくのは当然です。
いかに美しく変化させていくかが地域の住民性と言えるでしょう。
竹富島についていえば、島の総意として美しい町並みをつくり
あげて来ました。その中で伝統的な手仕事や祭りを継承してきま
した。その美しい町並みが、最近おかしくなっているのではと
指摘されます。写真が撮れなくなったという声も聞こえます。
言われなくても分っています。何年も調整しているのに経済原理
至上主義におぼれて、島の有り様よりも自身のことを優先する人
が出てきたからです。
祭りの感想を述べようとしているのに、世俗の愚痴になって
しまって、神様すみません。お守りいただいてお許しください。
(というプイの道歌が竹富島では歌われます。)
竹富島では芸能の奉納はありませんが、旧暦6月の最初の壬・癸
に「西塘ばんはじり」を行い、次の壬・癸で「プイ」を行います。
1日目は早朝から神司と公民館執行部・長老たちが3か所の村御嶽
を拝礼して解りあげし、御嶽のオンビニンジュと神司はそれぞれの
御嶽でミシャクと御酒をいただき、分かりあげを済ませます。
午後からは公民館執行部と長老たちがプイの道歌を歌いながら
六御嶽を参詣に回ります。各御嶽ではオンビニンジュがドラ太鼓を
打って唱和して迎えます。四カ字とはずいぶん違いますね。
ところでよく、農業をやっていない竹富島で豊年祭・種子取祭
とはおかしいのではないか、ということも言われているようです。
しかし、カマクワを使う農業が衰退したのは復帰後のこと。600年の
歴史と言われる種子取祭の中では一瞬のことです。こんなご時世
ですので、いつまた農業を復活せねばならないかもしれません。
そのためにも神行事としての祭りは、継続していかなければなり
ません。それは非農業者である中高生・公務員も一生懸命に豊年祭
に参加している石垣島とて同じことでしょう。
ともあれ竹富島では祭の最中に30分ほど、思いがけない世果報雨
を賜うられました。四カ字でもマイツバ御嶽のアヒャー綱が始まると、
ぱらぱらと濡らすほどの雨でした。その光景はまさしく
1903年(明治36)年1月16日に行われた人頭税廃止を喜ぶ
「新税法実施記念祝賀会」の琉球新報新聞記事、野間慶一の名文を
ほうふつさせるものでした。当時の人の気持ちと今も変わらない
ものがありますのであえて再録します。
「前略・・・あれ見よ六十近き翁媼等が深き額の皺を無にし藁の
鉢巻にて鐘を叩き手舞いを為すを。又見よ二八か二九の娘か喜色
を眉目に湛え今日を晴れと盛装を擬したる其衣髪に粛々と降り掛か
る雨を平気に打ち流し太鼓を打ち囃を掛けて踊るありさまを。
・・・後略」 竹富町史新聞集成Ⅰより
この時の勝敗決せず綱は見事に結び目より断絶したと言うこと
ですが、今年は西の雌綱が勝ちましたので来年の豊作は約束された
ことでしょう。
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