ミーナライ・シキナライの会

 平成17年3月、喜宝院蒐集館に所蔵されている文書の一部が、竹富町から『竹富町史 第10巻 資料編 近代1』として刊行された。この書は、明治36年の人頭税廃止前後の竹富島の姿を知るうえ、かけがえのない貴重な資料。早速、NPOたきどぅんの管理する「竹富島ビジターセンターゆがふ館」や港湾ターミナル「かりゆし館」で、販売している。
 平成元年にスタートした竹富町史編集委員会は、この19年間に「新聞集成」「近代資料」「戦争体験記録」など、10数冊を刊行し、多くの情報を提供してきた。そして、いよいよ町史の本論ともいうベき島々の歴史にさしかかろうとしたとき、国の三位一体の行財政の改革に迫られることになる。その結果、町史編集室は閉鎖され、編集者は総務課の編集係として他の業務も兼任することになった。しかし、島嶼群からなる島々の歴史はなににも代え難く、行政当局の理解を得、編集室は平成19年4月に復活したという経緯がある。
 これまでに刊行された書籍は、竹富町の島々の歩みとその変遷を明らかにしてきた。そのうえ、「近代資料」は、従来日の目を見なかった、自家版などの資料が、翻刻され、さらに意訳と解説を加え、町民の前に姿を現した。諸資料が誰にでも平易に読めるようになったという功績も大きい。
 幸い竹富島には、崎山毅の『蟷螂の斧』や上勢頭亨の『竹富島誌』、亀井秀一の『竹富島の歴史と民俗』、大真太郎『竹富島の土俗』、辻弘『竹富島いまむかし』などの貴重な著書がある。また、琉球大学や沖縄国際大学の調査報告書などがあるが、最近の刊行された諸資料を参考にしながら、島の歴史を見つめ直し、再編成する時期が来たと私は考えている。


 昨年、竹富島で行われた全国竹富島文化協の講演会で、「島立て」に関する講話を拝聴した。そのとき、「島立て」とは、決して神代の神話の中にあるだけでなく、現在においても日常の暮らしのなかで営まれるべきことだという。日々、「島立て」の心意気で暮らさなければ、島は本来の魅力を失い、くずれてしまう。そのことに気付かなければならないと。
 それには、先人の知恵と工夫と努力を引き継ぐ謙虚さを失わないこと。新しい智恵も必要だがそれに頼り過ぎないこと。新しい時代にかなった地域づくりは、企業ビジネスではなくコミュニティービジネスがふさわしいこと。それこそが地域の活性化をはかる要因である、と言うことであった。
 私はまさにその通りだと思った。従来は、竹富町の島々は行政の大きなバックアップを受けつつ、どちらかと言えば、個々人の努力で今日の暮らしを築いてこられたし、それで良かったかもしれない。しかし、現在のように、観光客が増加するだけでなく、IターンUターン組を含めて新住民が増え、われもわれもと手っ取り早く利益を得て生活をしようとすると、以前のような暮らし向きが一様ではなくなり、生活が多様化してくる。以前の自然と溶け合い、島の暮らしがゆったりと流れていた時間が、すっかりと変化してしまった。日々「島立て」の気概が必要となるゆえんである。
 このような問題意識を持つNPOたきどぅんの職員を中心に、昨年6月から、自主的な勉強会を始めた。「ミーナライ・シキナライ」の会がそれである。いわば、見て学び・聞いて学ぼうというものである。折しも、刊行されたばかりの喜宝院蒐集館の文書が我々の手元にある。それをちゃんとみんなで読むことから始めようと考えた。
 まず明治37年代の「村日記」、その前後の書類、同様の報告綴や人頭税などの書類などを読みながら、古老や先輩を訪ねて話を聞きながら、学んでいくことにした。毎週火曜日の夜、余程のことがない限りは休まないことを原則としている。したがって、例会は34回に及んだ。会場は上勢頭家や阿佐伊家、最近では新装された前与那国家住宅を利用している。
 特に明治20年代から30年代は、八重山にとってはもちろんだが、竹富島にとっても未曾有の激動の時代であった。廃藩置県から始まった世変わりは、村番所の廃止と役人の解職、学校や駐在巡査詰所の設立、土地整理と人頭税の廃止、壮丁検査と徴兵、殖産興業の勃興など当時の島人にとっては、予想だにしないことであった。
 特に注目したことは、「村日記」である。約二年間にわたって竹富島の日々の出来事が克明に日記として記録されている。我々が無関心にさえなっている天候や風向き、降雨の模様が実に細かい。
 また、島人の祭事行事にはほとんど関心を示さないが、明治国家の紀元節や明治節の新祝日が、式次第を含めて細かく記録されており、村頭(役人)の意図を読み取ることができる。それに、壮丁検査や日露戦争の凱旋軍人の帰島の模様、日露戦争の戦勝祝賀会並びにその行列の模様が手にとるように書かれている。
 また、役人の往来の多さである。農家経済調査や土地私有権移転台帳の訂正など、あるいは軍事用牛の買い上げ、共有地の件、反布検査、煙草の植え付けなど、連日のように役人の来島がある。人頭税が廃止された直後のことで、いろいろの摩擦があることが想像できる。
 特に注目したいことのひとつに、金城永本が村内の状況を視察し、ツカサをともなって御嶽の由来や史跡を調査したことが挙げられる。そのときの調査資料は残っていないだろうか。あれば参考になるのは疑いない。
 いちいち書いていけばきりがないが、まだまだ私たちの知らないことの多さに驚いている。一年かけて「村日記」を読み終え、「報告綴り」に入ってはいるが、雑談などでなかなか進めないこともある。会への参加者は延べ400人に達している。なかには、竹富に滞在する文化人(小林文人東京学芸大名誉教授、賀納章雄吹田市立博物館文化財保護係)なども参加して、色々ご教示くださる。
 「ミーナライ・シキナライ」の会は、スタートして一年が過ぎたにすぎない。喜宝院文書を読み終えたら、次は「新聞集成」を、さらに、石垣市史の「豊川家文書」の草創期の竹富村資料や「マラリア資料集成」を読んで行くという壮大な計画を立てている。
 “町民のための町史”を目指して出発した竹富町史編集委員会。莫大な費用を投じ、すでに十数冊の基礎的な文献を刊行して我々の前に多くの資料を提供している。我々はおおいに生かして行かなければならないと考えている。
 多くの町民各位は諸資料を参考にしながら、過去の竹富町の島々の歩みを深く顧みて現在の島々のありようと未来を展望する必要に迫られているのではないだろうか。                       (SA)

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