芋掘狂言の背景

行事が目白押しの毎日。
結願祭も無事に終えることができました。
今年の結願祭恒例「芋掘狂言」も、
出演者のアドリブも効いて
味わい深い演技を見せてくれました。
ここで「芋掘狂言」の背景を、イモに注目しながら、
少し考えてみたいと思います。
まずは次のセリフから。
  昔やりゃどぅ芋ぬ数んいしょーたる。
  此ぬ三品どぅあったっちょう。
  あーぱー芋、赤ぐるぐわー、白ぐるぐわーてぃどぅ
  此ぬ三品どぅあったっちょう、
  今や世ぬ変るた芋ぬ品ん
  やーさありどぅんなてぃやー。
  よう、此ぬ畝や
  よぎむらさき、農林1号、南国、沖縄1号
  めーひんやーさあすんが覚るぬ。
このセリフから、昔3種類しかなかった芋の品種が、
時代を経て随分増え、今では品種も
「よぎむせさき」「農林1号」「南国」「沖縄1号」のほか、
「めーひんやーさあすんが覚るぬ(もっとたくさんあるが覚えられない)」ほどになったといいます。
また、品種名から外来のものが島に入ってきたことが想像できますが、
その由来のひとつにとして、次の喜舎場永?氏が記録したものも
参考になるでしょうか(『八重山民俗誌 上巻』)。
(YI)


「往古、支那の山中で、菊の葉に文字が書かれたのが
川上から流れて来るので、川下の者がこれを取り、不思議に思い、
川上に誰かが居る。誰だろうと思い尋ね探したところ、
『ハンチン王』という古老が居られて『イモ』を食しておられたという。
そこで其の種子を頂いて来て植えたところ、
其の後如何なる水害の時でも災害時にでも餓死することがなかったとの
古老の伝えである」
この話は、イモの由来を支那に求めています。
ここに「ハンチン王」が現れるのは、たいへん心がひかれます。
というのは、「はんつ王(ぼう)・千人(しんにん)草(そー)ぬ
願(にが)い立(た)てぃおーたる九月(くがち)九日(くにち)
菊(きく)酒(さき)ぬ喜(ゆるく)びぬ願(にが)い」という
「九日願い」の願口の冒頭から、「九日願い」を立願したのが
「はんつ王」すなわち「ハンチン王」だというからです。
では「ハンチン王」とは、いったい何者なのでしょうか。
ちなみに、ハンチンとは、サツマイモのこと。
八重山の古文献にサツマイモは「はんすいも」「はんつ芋」と
いうかたちで頻出します。
つまり、「ハンチン王」とは「イモの王様」ということでしょうか。
宮良賢貞氏は、「あっこん考」(『八重山芸能と民俗』収録)のなかで、
八重山におけるサツマイモの起源を物語る、二つの史料を紹介しています。
ひとつは「慶来慶田城由来記」で、もうひとつは「大史姓系図原文」。
イモの伝播を考えるうえで、両者はともに見逃せません。
前者は「むかしは稲ばかり作って、上納米ならびに余米も
ゆったりとしていたが、康煕年間(1662~1722)の初め頃、
はんついも(サツマイモ)を沖縄から持ち下り、石垣島の村々に作り、
種子を広く作らせた。
麦・粟・真黍・大豆・小豆の類も、その時分から次第に沖縄から招来して、
諸村に手広く栽培された。
サツマイモは石垣島から持ってきて、舟浮村の桃原野に作り始め、
それから種子をうけて手広く栽培するようになったという伝えがある」(『石垣市史叢書1』参照)とのこと。
後者は、波照間高康が石垣島にイモを伝えたことを物語る史料。
これによると、波照間翁は、公務のため王府へ出張を命ぜられたましたが、
帰途台風にあい唐国の鎮海に漂着しました。
波照間翁は鎮海から黄はんつ芋の種子を持ち帰り、
一部は垣花の畑に植え、残りは八重山へ持ち帰ったといいます。
「波照間高康翁頌徳碑」は、1947年10月22日に建立されました
(喜舎場永?「碑文集」『八重山民俗誌』参照)。
旧暦9月9日のイモ祭りとの関わりに配慮して、
碑の建立の日を旧暦9月9日にあてていることも、
看過できません。
当時、「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、
現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。
ところで、タナドゥイ(種子取祭)で演じられる
玻座間村の狂言「鍛冶工狂言」では、
登場人物は次のようにうたいながら退場します。
  粟ゆ作らば官ぬ為      (粟を作るのは官<年貢>のため)
  はんちゆみぎらば胴ゆぬ為  (芋を実らすのは自分のため)
  願いみぎらしうたらみす   (願って実らせみんなの為にしよう)
粟は年貢として納めるもので、芋は庶民の食料だということです。
この歌は、人頭税時代の社会を風刺すると同時に、
イモが島人の常食であることを物語っています。
結願祭の「芋掘狂言」から、イモについて思いをはせてみました。
このほか、科学的、また民俗学、歴史学的立場から、
八重山地域へのイモの伝播について情報をお持ちの方、
ご教示くだされば幸いです。