八重山から。八重山へ。

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先月、砂川哲雄氏の著書 『八重山から。八…

勤労感謝の日

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本日11月23日は勤労感謝の日です。 この祝日は、 「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを 趣旨とし、1948年公布・施行の「祝日法」で制定されました。 これには、第2次世界大戦以前に行われていた「新嘗祭(にいなめさい)」を 改めて制定したという経緯があります。 11月23日が「勤労感謝の日」だというのは、 その日付自体にそれほど深い意味はありません。 新暦が採用された1872年以前、新嘗祭は旧暦11月 2回目の卯の日に行われていたのですが、 1873年ではたまたま11月23日だったというだけのことです。 それで翌年(1873年)から11月23日に固定されるようになったのです。 新嘗祭は、天皇が宮中でその年の新穀を神に供え、 感謝するとともに、自身で食すという儀式があります。 そして、天皇が即位して最初に行うものを 大嘗祭(だいじょうさい)といいます。 国内の神社でもこれにならい、 民間でも農耕儀礼として行われるようになったともいわれています。 谷川健一氏は著書『大嘗祭の成立』(1990年・小学館) 第2章・第3章で大嘗祭の成立にいたる論証に、 沖縄の民俗儀礼に注目し考察しています。 例えば、大嘗祭の抜穂儀礼の問題を考えるとき、 八重山地域の初穂儀礼(スクマ)と比較したりしています。 竹富島の年中行事について考察するとき、 このような視点や方法も参考になるかと思います。       (YI) …

由布島覚書

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昨夜、「ミーナライ(見習い)・シキナライ…

芋掘狂言の背景

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行事が目白押しの毎日。 結願祭も無事に終えることができました。 今年の結願祭恒例「芋掘狂言」も、 出演者のアドリブも効いて 味わい深い演技を見せてくれました。 ここで「芋掘狂言」の背景を、イモに注目しながら、 少し考えてみたいと思います。 まずは次のセリフから。   昔やりゃどぅ芋ぬ数んいしょーたる。   此ぬ三品どぅあったっちょう。   あーぱー芋、赤ぐるぐわー、白ぐるぐわーてぃどぅ   此ぬ三品どぅあったっちょう、   今や世ぬ変るた芋ぬ品ん   やーさありどぅんなてぃやー。   よう、此ぬ畝や   よぎむらさき、農林1号、南国、沖縄1号   めーひんやーさあすんが覚るぬ。 このセリフから、昔3種類しかなかった芋の品種が、 時代を経て随分増え、今では品種も 「よぎむせさき」「農林1号」「南国」「沖縄1号」のほか、 「めーひんやーさあすんが覚るぬ(もっとたくさんあるが覚えられない)」ほどになったといいます。 また、品種名から外来のものが島に入ってきたことが想像できますが、 その由来のひとつにとして、次の喜舎場永?氏が記録したものも 参考になるでしょうか(『八重山民俗誌 上巻』)。 (YI) 「往古、支那の山中で、菊の葉に文字が書かれたのが 川上から流れて来るので、川下の者がこれを取り、不思議に思い、 川上に誰かが居る。誰だろうと思い尋ね探したところ、 『ハンチン王』という古老が居られて『イモ』を食しておられたという。 そこで其の種子を頂いて来て植えたところ、 其の後如何なる水害の時でも災害時にでも餓死することがなかったとの 古老の伝えである」 この話は、イモの由来を支那に求めています。 ここに「ハンチン王」が現れるのは、たいへん心がひかれます。 というのは、「はんつ王(ぼう)・千人(しんにん)草(そー)ぬ 願(にが)い立(た)てぃおーたる九月(くがち)九日(くにち) 菊(きく)酒(さき)ぬ喜(ゆるく)びぬ願(にが)い」という 「九日願い」の願口の冒頭から、「九日願い」を立願したのが 「はんつ王」すなわち「ハンチン王」だというからです。 では「ハンチン王」とは、いったい何者なのでしょうか。 ちなみに、ハンチンとは、サツマイモのこと。 八重山の古文献にサツマイモは「はんすいも」「はんつ芋」と いうかたちで頻出します。 つまり、「ハンチン王」とは「イモの王様」ということでしょうか。 宮良賢貞氏は、「あっこん考」(『八重山芸能と民俗』収録)のなかで、 八重山におけるサツマイモの起源を物語る、二つの史料を紹介しています。 ひとつは「慶来慶田城由来記」で、もうひとつは「大史姓系図原文」。 イモの伝播を考えるうえで、両者はともに見逃せません。 前者は「むかしは稲ばかり作って、上納米ならびに余米も ゆったりとしていたが、康煕年間(1662~1722)の初め頃、 はんついも(サツマイモ)を沖縄から持ち下り、石垣島の村々に作り、 種子を広く作らせた。 麦・粟・真黍・大豆・小豆の類も、その時分から次第に沖縄から招来して、 諸村に手広く栽培された。 サツマイモは石垣島から持ってきて、舟浮村の桃原野に作り始め、 それから種子をうけて手広く栽培するようになったという伝えがある」(『石垣市史叢書1』参照)とのこと。 後者は、波照間高康が石垣島にイモを伝えたことを物語る史料。 これによると、波照間翁は、公務のため王府へ出張を命ぜられたましたが、 帰途台風にあい唐国の鎮海に漂着しました。 波照間翁は鎮海から黄はんつ芋の種子を持ち帰り、 一部は垣花の畑に植え、残りは八重山へ持ち帰ったといいます。 「波照間高康翁頌徳碑」は、1947年10月22日に建立されました (喜舎場永?「碑文集」『八重山民俗誌』参照)。 旧暦9月9日のイモ祭りとの関わりに配慮して、 碑の建立の日を旧暦9月9日にあてていることも、 看過できません。 当時、「頌徳碑」は石垣島字大川の大石垣御嶽の側にありましたが、 現在は八重山農林高等学校の東側の交差点の隣に移設されています。 ところで、タナドゥイ(種子取祭)で演じられる 玻座間村の狂言「鍛冶工狂言」では、 登場人物は次のようにうたいながら退場します。   粟ゆ作らば官ぬ為      (粟を作るのは官<年貢>のため)   はんちゆみぎらば胴ゆぬ為  (芋を実らすのは自分のため)   願いみぎらしうたらみす   (願って実らせみんなの為にしよう) 粟は年貢として納めるもので、芋は庶民の食料だということです。 この歌は、人頭税時代の社会を風刺すると同時に、 イモが島人の常食であることを物語っています。 結願祭の「芋掘狂言」から、イモについて思いをはせてみました。 このほか、科学的、また民俗学、歴史学的立場から、 八重山地域へのイモの伝播について情報をお持ちの方、 ご教示くだされば幸いです。 …

ミーナライ・シキナライの会

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 平成17年3月、喜宝院蒐集館に所蔵されている文書の一部が、竹富町から『竹富町史 第10巻 資料編 近代1』として刊行された。この書は、明治36年の人頭税廃止前後の竹富島の姿を知るうえ、かけがえのない貴重な資料。早速、NPOたきどぅんの管理する「竹富島ビジターセンターゆがふ館」や港湾ターミナル「かりゆし館」で、販売している。  平成元年にスタートした竹富町史編集委員会は、この19年間に「新聞集成」「近代資料」「戦争体験記録」など、10数冊を刊行し、多くの情報を提供してきた。そして、いよいよ町史の本論ともいうベき島々の歴史にさしかかろうとしたとき、国の三位一体の行財政の改革に迫られることになる。その結果、町史編集室は閉鎖され、編集者は総務課の編集係として他の業務も兼任することになった。しかし、島嶼群からなる島々の歴史はなににも代え難く、行政当局の理解を得、編集室は平成19年4月に復活したという経緯がある。  これまでに刊行された書籍は、竹富町の島々の歩みとその変遷を明らかにしてきた。そのうえ、「近代資料」は、従来日の目を見なかった、自家版などの資料が、翻刻され、さらに意訳と解説を加え、町民の前に姿を現した。諸資料が誰にでも平易に読めるようになったという功績も大きい。  幸い竹富島には、崎山毅の『蟷螂の斧』や上勢頭亨の『竹富島誌』、亀井秀一の『竹富島の歴史と民俗』、大真太郎『竹富島の土俗』、辻弘『竹富島いまむかし』などの貴重な著書がある。また、琉球大学や沖縄国際大学の調査報告書などがあるが、最近の刊行された諸資料を参考にしながら、島の歴史を見つめ直し、再編成する時期が来たと私は考えている。  昨年、竹富島で行われた全国竹富島文化協会の講演会で、「島立て」に関する講話を拝聴した。そのとき、「島立て」とは、決して神代の神話の中にあるだけでなく、現在においても日常の暮らしのなかで営まれるべきことだという。日々、「島立て」の心意気で暮らさなければ、島は本来の魅力を失い、くずれてしまう。そのことに気付かなければならないと。  それには、先人の知恵と工夫と努力を引き継ぐ謙虚さを失わないこと。新しい智恵も必要だがそれに頼り過ぎないこと。新しい時代にかなった地域づくりは、企業ビジネスではなくコミュニティービジネスがふさわしいこと。それこそが地域の活性化をはかる要因である、と言うことであった。  私はまさにその通りだと思った。従来は、竹富町の島々は行政の大きなバックアップを受けつつ、どちらかと言えば、個々人の努力で今日の暮らしを築いてこられたし、それで良かったかもしれない。しかし、現在のように、観光客が増加するだけでなく、IターンUターン組を含めて新住民が増え、われもわれもと手っ取り早く利益を得て生活をしようとすると、以前のような暮らし向きが一様ではなくなり、生活が多様化してくる。以前の自然と溶け合い、島の暮らしがゆったりと流れていた時間が、すっかりと変化してしまった。日々「島立て」の気概が必要となるゆえんである。  このような問題意識を持つNPOたきどぅんの職員を中心に、昨年6月から、自主的な勉強会を始めた。「ミーナライ・シキナライ」の会がそれである。いわば、見て学び・聞いて学ぼうというものである。折しも、刊行されたばかりの喜宝院蒐集館の文書が我々の手元にある。それをちゃんとみんなで読むことから始めようと考えた。  まず明治37年代の「村日記」、その前後の書類、同様の報告綴や人頭税などの書類などを読みながら、古老や先輩を訪ねて話を聞きながら、学んでいくことにした。毎週火曜日の夜、余程のことがない限りは休まないことを原則としている。したがって、例会は34回に及んだ。会場は上勢頭家や阿佐伊家、最近では新装された前与那国家住宅を利用している。  特に明治20年代から30年代は、八重山にとってはもちろんだが、竹富島にとっても未曾有の激動の時代であった。廃藩置県から始まった世変わりは、村番所の廃止と役人の解職、学校や駐在巡査詰所の設立、土地整理と人頭税の廃止、壮丁検査と徴兵、殖産興業の勃興など当時の島人にとっては、予想だにしないことであった。  特に注目したことは、「村日記」である。約二年間にわたって竹富島の日々の出来事が克明に日記として記録されている。我々が無関心にさえなっている天候や風向き、降雨の模様が実に細かい。  また、島人の祭事行事にはほとんど関心を示さないが、明治国家の紀元節や明治節の新祝日が、式次第を含めて細かく記録されており、村頭(役人)の意図を読み取ることができる。それに、壮丁検査や日露戦争の凱旋軍人の帰島の模様、日露戦争の戦勝祝賀会並びにその行列の模様が手にとるように書かれている。  また、役人の往来の多さである。農家経済調査や土地私有権移転台帳の訂正など、あるいは軍事用牛の買い上げ、共有地の件、反布検査、煙草の植え付けなど、連日のように役人の来島がある。人頭税が廃止された直後のことで、いろいろの摩擦があることが想像できる。  特に注目したいことのひとつに、金城永本が村内の状況を視察し、ツカサをともなって御嶽の由来や史跡を調査したことが挙げられる。そのときの調査資料は残っていないだろうか。あれば参考になるのは疑いない。  いちいち書いていけばきりがないが、まだまだ私たちの知らないことの多さに驚いている。一年かけて「村日記」を読み終え、「報告綴り」に入ってはいるが、雑談などでなかなか進めないこともある。会への参加者は延べ400人に達している。なかには、竹富に滞在する文化人(小林文人東京学芸大名誉教授、賀納章雄吹田市立博物館文化財保護係)なども参加して、色々ご教示くださる。  「ミーナライ・シキナライ」の会は、スタートして一年が過ぎたにすぎない。喜宝院文書を読み終えたら、次は「新聞集成」を、さらに、石垣市史の「豊川家文書」の草創期の竹富村資料や「マラリア資料集成」を読んで行くという壮大な計画を立てている。  “町民のための町史”を目指して出発した竹富町史編集委員会。莫大な費用を投じ、すでに十数冊の基礎的な文献を刊行して我々の前に多くの資料を提供している。我々はおおいに生かして行かなければならないと考えている。  多くの町民各位は諸資料を参考にしながら、過去の竹富町の島々の歩みを深く顧みて現在の島々のありようと未来を展望する必要に迫られているのではないだろうか。                       (SA) …

第30回全国町並みゼミ伊勢大会

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第30回を記念する「全国町並みゼミ」が、9月14日から16日の3日間、 「伝えよう心とかたちのまちなみ文化」をテーマにして お伊勢参りのにぎわいとともに栄えた、三重県伊勢市で開催されます。 3日間のプログラムについて、1日目(9月14日)の全体会では 「開会セレモニー」、河合真如氏の基調講演「式年遷宮と伊勢のまち」、 伊勢からの報告、各地からの活動報告、交流会があります。 2日目(15日)は、町並み見学が、7つの分科会に分かれて行われます。 3日目の全体会では、分科会の報告、 「町並みゼミ30回記念パネルディスカッション」、町並みゼミ総括が 行われます。 パネルディスカッションに 上勢頭芳徳氏(喜宝院蒐集館館長)が パネラーとして竹富島から参加します。 テーマは「町並みゼミが伝えていくものはなにか」。 ディスカッションは、福川裕一氏(千葉大学教授)をコーディネーターに、 上勢頭氏のほか、中一夫氏(NPO法人小樽・朝里のまちづくりの会)、 北島力氏(八女福島伝統的町並み協定運営委員会)、 岡崎直司氏(宇和中町を守る会)をパネラーとして行われます。 ■「第30回全国町並みゼミ伊勢大会プログラム」はこちら。 ■お問い合わせ ○第30回全国町並みゼミ伊勢大会実行委員会 〒516-0009 三重県伊勢市河崎2丁目25番32号 伊勢河崎商人館内 Tel…

法政大学沖縄文化研究所連続講座

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8月4日に法政大学ボアソナードタワー706教室で開催された、 2007年度法政大学沖縄文化研究所連続講座を受講しました。 今回は5月から開講してきた講座の最終回にあたり、 次の3つの講座がありました。   ○ 永瀬克己 「沖縄の井泉と井戸の形態」   ○ 安江孝司 「沖縄織物の『系統と文化意義論』」   ○ 飯田泰三 「『もう一つのアジア』と日本文化」   どの講座も、時間と空間を広くとらえた、ボリュームたっぷりの内容。 それらをひとつひとつ竹富島に引き寄せて考えてみる必要を覚えました。 NPOたきどぅんでは、活動の一つとして、 「竹富島の井戸めぐり」ツアーの企画・実施、 古井戸「アーラカー」にポンプを設置するなどを行い、 竹富島の水とくらしにスポットをあててきました。 それだけに、永瀬氏の講座を、興味深く拝聴しました。 永瀬氏は建築学のアプローチにより、 沖縄各地の井戸の構造を具体的に示され、 そこから村の成立や井戸の聖性にまで話が及びました。 「竹富島の水とくらし」に注目した、 NPO活動の展開を考えるうえで、 大きな示唆を得た講座でした。 今後は、永瀬氏の方法から学んで、 井戸の構造を図面化したり、水質調査を行って、 古井戸の再活用を考えていきたいものです。(YI) …

豊年祭(プイ)

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 西塘ばんはじり(西塘大祭)が終わると、 10日後には豊年祭が行なわれます。  豊年祭のことを竹富島においては“プイ”と呼びます。 呼称は八重山の各地域によって異なりますが、 一年間でもっとも喜びに満ち溢れた祭りであることは 地域を問わず同じであったことでしょう。  故…

海の主(インヌシュー オーシ)

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海の神に対するお供え 島外でお亡くなりになられた方の位牌(祖霊)、遺骨、死体などを島にお招きする際は、必ず海の神にお供えをする風習があります。 この行事は、海の神に対する死霊の運賃支払であり、また報恩でもあると伝えられています。 また、数ある祈願のなかで、最も厳しい行事とされていて、 過去にはやり直しを何回も行なった。いうこともありました。 供物は八重山の地域によって異なりますが、竹富島では煮餅、和紙に包んだ粟、反物に似せた和紙(反物の代物)、古い釘などを供え、無事に祈願が終了した際は、供物は海に投げ入れ、海の神に感謝します。 …

第1回 狩俣・家中「うつぐみ」研究室

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この日はとても忙しい日でした。 日中は旧与那国家落成式・祝賀会、夜はこの「うつぐみ」研究室です。 今回が記念すべき第1回目で、早稲田大学の三輪信哉先生を迎え、テーマは「みんなでつくる循環型社会」、つまり、ゴミ問題についてです。 竹富島にはゴミ処理施設がありません。人口350人の島でありながら、年間30万人ともいわれる観光客が押し寄せるので、ゴミ処理には苦労します。 西表島に処理施設ができるといえども、なるべくゴミを出さない努力が必要です。 そしてその努力は、ただ真面目に取り組むだけでは長続きしません。 「みんなにお得」をキーワードに、これからの取り組みを考える必要がありそうです。 青年会やぶなる会(婦人会)、PTAより、真剣に聞き入り、積極的な意見交換をする姿が印象的でした。   …