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お盆のような。

お隣の島から竹富島を眺めると。 まっ平ら…

6月4日は何の記念日?

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竹富島にとって6月4日は、記念すべき一日でもあります。 1976(昭和51)年6月4日から3日間、東京、国立劇場において 「竹富島の種子取」として公演が行われた日にあたります。 当時、選択無形民俗文化財に指定されていた「種子取祭」は、 祭事を維持していく中で大きな波に揉まれていました。 過疎化が進み、島だけで祭事を維持することができなくなり、 石垣竹富郷友会の協力を仰いでいたのです。 1974(昭和49)年、石垣竹富郷友会から一つの提案がありました。 神事は干支どおりに行い、奉納芸能は休日に行えないか。とのこと でした。 竹富公民館は、神事は人間の都合で変えることはできないと 判断し、この提案を拒否します。 よって、この年の種子取祭は、竹富島住民のみで奉納されています。 (この映像は、ゆがふ館にてご覧いただくことができます。) こうしたなか、国立劇場より国立劇場開館十周年を記念して 「八重山の唄と踊り、竹富島の種子取祭の芸能」として出演の 依頼があります。 島から離れた初めての試み、しかも東京に赴き芸能公演を行う ということ。当然、島では大騒ぎになります。 遠く離れた東京で自らの文化を伝えられるまたとないチャンスです。 島民は是が非でも成功させようと、当時の公民館長であった 狩俣正三郎氏を中心に芸能団を結成し、70数名が東京に向かいます。 東京竹富郷友会のメンバーは「竹富島の種子取祭の芸能公演を成功 させる実行委員会」を発足し、芸能団を歓迎し、チケットの販売、慰労会 のセッティングなど東奔西走します。 そして6月4日から6月6日まで、国立劇場において、初の芸能公演 が開催されます。 この芸能公演を観た本土在住の竹富島の若者は、自らの故郷の 素晴らしさを再認識し島へ帰る者、または東京に残った者は郷友会 の活動に力を入れるようになります。 この芸能公演は様々な点からみても竹富島にとって大きな出来事 になりました・・・。 日本テレビで放映されている「おもいっきりイイ!テレビ」6月4日付 放送において、(12:50から12分程度)この記念日のついての紹介が あります。 “竹富島にとって大きな出来事”の答えは、ぜひ番組でご覧ください。 取材を受ける沖縄国際大学教授 狩俣恵一さん (ta) …

沈伽羅

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今朝の『八重山毎日新聞』に、 宮良永重氏の興味深い文章「沈伽羅さがしの旅」を 見つけました。 「沈伽羅」とは、「じんきゃら」とよみ、 高価な香木のことをいいます。 宮良氏は、八重山古典民謡《古見之浦節》の一節に 「袖振らば里之子/沈伽羅ぬ匂しおる」 という歌詞があり、 その「沈伽羅」に注目しています。 《古見之浦節》は、 「尚敬王時代に、平得目差、大宜味長稔の作といわれている 古見の浦は、公用で与那国島から帰途中、 悪天候となり古見の浦に避難した大宜味が 古見村の美人ブナレーマに介抱され、 その情を交わした2人の別離の悲哀を歌ったもの」です。 それゆえ、一般に先の一節は、里之子との別れに際し、 里之子が袖を振るごとに、その袖に染まった 沈伽羅の匂いが漂ってくると 解釈されています。 沈伽羅について、宮良氏は 「沈香木は、インドや東南アジアのジャングルに見える樹木で、この香料がけがれをとるものとして利用され、また薬品でもあり香薬といわれ、日本における最初、推古天皇時代に淡路島に漂着し、島の人々は長さ2メートル半もあった香木をただの流木と思い火に薪と一緒になげこんでしまった。すると大変かぐわしい匂いのする煙がたちのぼり、驚いた人々は、これを朝廷に献上したといわれている。現在、正倉院にある沈香木は、日本にある沈香のなかでも最大級のものとのこと」 と紹介しています。 さらに 「上質香木のことをどうして伽羅と呼ぶようになったのかは定かではないが、伽羅といえば“すばらしい”とか“すてき”“美しい”などの代名詞とされ、沈香は、香りの種類が特に質の良いものを“伽羅”と呼ぶようである」 と述べています。 ところで、竹富島の《弥勒節》にも「伽羅」が出てきます。 では、6番の歌詞をみてみましょう。    伽羅ぬ代取るそ    (伽羅の名が与えられるのは)    鶉目ぬ沈香      (鶉の羽模様の沈香だけです)    親ぬ代取るそ     (親の代を継ぐのは)    初ぬ産み子 初ぬ産み子(最初に生まれた男の子)    サーサー ユーヤー サースリ サーサー 『芸能の原風景』(改訂増補版)には、 「伽羅」は「香木の一つ。我が国でも珍重された」と 説明されています。 また、「鶉目ぬ沈香」(ウズラミヌジンク)については 「鶉の羽模様に似た木目の沈香、の意。 最も珍重された沈香」とあります。 それにしても、伽羅の名が与えられのは、 「鶉目ぬ沈香」だけだという 見識はどこから得たのでしょうか。 ますます興味は深まっていきます。 ちなみに、最古の琉歌集『琉歌百控』の 「独節流」(1798年)には 《沈仁屋久節》として、次の2首が記録されています。 ○沈や伽羅灯そ 御座敷に出て 躍るわか袖の 匂の塩ら舎 ○沈や伽羅留て はなの物語り いつまてん互に あかの匂ひ                          (YI) …

63年前の今日

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63年前といえば1944年。 戦争の真っ只中でした。 この日、石垣島で、 竹富女子青年団による 慰問演芸会が催されました。 演目は「竹富すきた盆」「上り口説」 「竹富まみどーま」「仲筋ぬぬべやま」等。 この記録は『南島研究 第48号』(2007年)に収録の、 吉田久一「やえま・ふたとせ」(日記抄)によります。 吉田久一は、当時、八重山に駐屯した一兵士で、 敗戦で島を引き揚げるまで書いた、『八重山戦日記』は、 当時記された記録として貴重です。 演芸会については、 「警備の如き、感激が無く安逸に流れ易いものに、 かかる催しは救いである」と記しています。    (YI) …

八重山から。八重山へ。

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先月、『八重山から。八重山へ。-八重山文…

玻座間村VS仲筋村

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竹富島のタナドゥイ(種子取祭)の奉納芸能は、 世持御嶽の聖域に設けられた特設舞台で、 第7日目は玻座間村、第8日目は仲筋村が担当することになっています。 竹富島の豊かな芸能は、二つの村がタナドゥイの舞台で競演することにより 育まれてきた側面があります。 そのため、両者の対抗意識を物語る、数多くの逸話が語られています。 かつて仲筋村では、タナドゥイに向けての芸能の稽古中、 「ウヌソンアリッティ、ンブフルヌ坂ー、越イラリルンダー」と よく言ったそうです。 「ンブフルヌ坂ー」とは、仲筋村と玻座間村の境界にある丘のことですが、 先の言葉は、この程度の芸でンブフルの丘が越えられるか、 という意味です。 これには、この程度の芸では玻座間村に負けてしまうぞ、 ということまで含まれており、 そこにはただならぬ対抗意識がうかがえます。 一方、このように互いに芸を競いながらも、 タナドゥイが済むと、玻座間村の長老から、 「仲筋ヌ踊狂言ユ、見ッタァドゥ、種子取ッティ思リル」と 仲筋村への賛辞がかけられたといいます。 これは、仲筋村の踊り・狂言を見たからこそ、種子取祭だと思われるよ、 と仲筋村の芸能を称えた言葉です。 このように島には、集落単位の対抗意識と同時に、 それを乗り越えてまとまろうとする力が働いています。      (YI) …

仲筋村伝統芸能継承の碑

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仲筋村のハニヤ御嶽の境内に 「仲筋村伝統芸能継承の碑」が建立されたのは、 1999(平成11)年9月のことです。 このモニュメントには、16の芸能の演題が銘記されています。 次に、その演目を碑の表記にしたがって、並べてみましょう。 そのとき、便宜的に番号をふることにします。   (1)あぶじ狂言   (2)種子蒔き狂言   (3)天人狂言   (4)はる屋の願い   (5)組踊り父子忠臣   (6)スル掬い狂言   (7)タナドウ屋狂言   (8)いも掘り狂言   (9)たこ捕り狂言   (10)鬼狂言   (11)タノリャー   (12)八人踊り   (13)サングルロ   (14)仲筋のヌベマ   (15)マミドー   (16)腕棒 上の演目のうち、(1)~(10)が狂言で、 (11)~(16)が舞踊です。 原則的に狂言は男性、舞踊は女性が担当することになっています。 このうち、(1)(2)(3)(11)は、タナドゥイ(種子取祭)において 儀礼的な芸能であり、どのような悪天候でも 毎年奉納することになっています。 (1)(2)(3)の狂言は、儀礼的な狂言という意味で、 「リーキョンギン」「リーヌキョンギン」「ジーキョンギン」などと称され タナドゥイにおける、祈りの心が象徴され、奉納芸能の核になっています。 (11)は、粟の種子蒔きの仕草を舞踊化したものですが、 格調高く、優美な所作が印象に残ります。 (2)は、ミシャグキョンギン(神酒狂言)とも呼ばれ、 劇中に「ミシャグヌカザイングチ(神酒の飾口)」が、 セリフのひとつとして唱えられます。 これは農作業の過程を述べ、年貢の上納、そして神との饗宴が 叙述的に展開した、長大なセリフになっています。 また、「ミシャグヌカザイングチ」は、神ツカサが唱える、 願口の内容と表現のうえでも大きく重なり合っていることにも 注目できます。 このことは、神ツカサの唱える願口の内容が、 狂言を通じて、神・島人に確認されるという、 役割も考えられるからです。 こうした考察を深めることによって、 芸能の本質が浮上してくるかと思います。            (YI) …

島外芸能公演の歩み

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本日開催される「竹富島種子取祭の芸能」(浦添市てだこホール)は、 全国竹富島文化協会創立10周年を記念して開催されることに加えて、 沖縄本島で初めてのまとまった大きな芸能公演ということからも、 記念すべき公演と位置付けることができます。 この機会に、今回は島外で開かれた芸能公演を 簡単に簡単に振り返ってみたいと思います。 1977(昭和52)年5月17日、文部大臣によって「竹富島の種子取祭」は、 国の重要無形民俗文化財の第1号として指定を受けました。 その前年の6月には、玻座間村・仲筋村を合わせた70余名で、 芸能団を結成し、国立劇場での公演を成功させました。 この公演を契機にして、 芸能に対する演出や衣裳への関心が高まっていったといいます。 例えば、数多い演目の幕間の時間を短縮するために、 女の子が演題をめくってプログラムを進行させる方法は、 現行のタナドゥイ(種子取祭)でも生かされています。 これによってタナドゥイでも、間断なく芸能を奉納することができ、 好評を得ています。 全国竹富島文化協会の設立されたのが1996(平成8)年ですが、 これをきっかけにして再び国立劇場での公演が 待望されるようになってきました。 1998(平成10)年には玻座間村が九段会館(東京)での公演を遂げ、 その成功が大きな成果となり、 2001(平成13)年の仲筋村の国立劇場公演につながってきたのです。 伝統的な祭事のなかで奉納される芸能と同時に、 島外で開催される芸能公演の歴史をふりかえり、 その意味合いを確認し、位置付ける必要もあるかと思います。 参考文献○『芸能の原風景』(瑞木書房)                                (YI) …

狂言のこと

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「竹富島種子取祭の芸能」公演が いよいよ明日6時30分より、 浦添市てだこホールにて開幕します。 そのなかの演目に、玻座間村の例狂言(呪狂言、地狂言とも表記される) 《鍛冶工》《世曳き》があります。 玻座間村の例狂言には 《鍛冶工》《組頭》《世持》《世曳き》の4題があり、 これらは種子取祭の奉納芸能のなかに 意図的に仕組まれています。 《組頭》では、組の責任者である、組頭の名乗りのあとのセリフに 「この間てぃやぴら、金鍬、揃整ないし」とあります。 これは「この間は鍛冶をして、ヘラ・鍬を整えましたが」といってますが それはとりもなおさず《組頭》が《鍛冶工》を受けてつづくことを 意味しています。 まず《鍛冶工》で鉄の農具を製作し、 つづく《組頭》では作られた鍬で農地を拵えるという、 一連の流れがみてとれます。 その次の《世持》では願口を唱えて種子を蒔き、 《世曳き》では目に見えない「世」、 すなわち豊穣を具体化します。 つまり、《世曳き》とは収穫した作物を、 実際に台車に載せて曳くことによって 「世」を視覚化しているのです。 このようにそれぞれが単独の演目なのですが、 それらが有機的に結びついているところに、 祭祀のなかに組み込まれた 例狂言の意図を読みとることができるのです。          (YI) …

ジッチュ

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「竹富島種子取祭の芸能」公演で演じられる演目のひとつに、 舞踊《ジッチュ》があります。 この舞踊は「エイサ」という小気味良い、囃子声に合わせて足を踏み込み、 小さなクバ笠をクルリとまわす、粋な所作が印象に残ります。 舞踊の小道具には、数種類の笠がありますが、 《ジッチュ》で用いられるものは、小さなクバ笠に村番所の紋章の入った 「ジッチュ笠」と呼ばれるものです。 また、「ジッチュ」とは「10人」という意味だと伝わっていますが、 「シチュシチュ」という、踊り手の掛声から命名されたとも考えられます。 《ジッチュ》が片袖を抜いて踊られことには、 次のような話が伝わっています。 人頭税時代、10人の子供たちを立派に育て上げながら、 毎年の年貢を完納した、ある農民がいました。 彼の模範的な所業は、琉球国王の聞くところとなり、 表彰されることになりました。 そして、夫婦と10人の子供たちは、国王に拝謁することになりました。 しかし、貧しさゆえに、子供たちの10人分の着物を新調することができず、片袖分の布を節約したとのことです。 そのため、舞踊《ジッチュ》は片袖を抜いた着付けになっています。 そして国王に拝謁できた喜びを表現しているといいます。 だから舞踊の構成は、前を向いて国王を畏れ拝み、 後ろを向いて親の顔を見て喜ぶ子どもたちを表現した、 ふたつの型の組み合わせで踊るといわれています。 片袖を脱いで踊ることについて別の説もあります。 それは仕事の都合で遅れた踊り手が、慌てて衣装を着たので 片袖が脱げたままで踊ったところ、 その舞い踊る姿のほうがが粋だというので、 片袖を脱いで踊るようになったという説です。 粋な出で立ちの由来には諸説ありますが、 漁村の若い男女の労働を描いた琉球舞踊《谷茶前》や、 《かせかけ》や能《砧》の労働に従事する女性の着付けが、 《ジッチュ》の役柄と同様に、片袖を抜いた着付けが ひとつの型になっていることにも注目できます。 尚、舞踊《ジッチュ》の軽快な曲は、 沖縄本島の民謡《唐船どーい》の替え歌になっています。 《唐船どーい》は、沖縄の祝宴のフィナーレを飾り、 人々を乱舞させますが、タナドゥイ(種子取祭)に世持御嶽の庭で 《ジッチュ》が踊られるとき、タナドゥイにふさわしい歌詞がのり、 元歌とは異なった味わいを醸します。 参考文献○「ジッチュ」『芸能の原風景(改訂版)』、上勢頭亨「ジッチュ踊り」『竹富島誌 歌謡・芸能篇』参照。                                (YI) …