坊主墓

私たちNPOたきどぅんの活動において重要なミッションである“遺産の保護”は多岐にわたります。
文化の継承はもちろんのこと、亜熱帯特有の植物の繁殖から遺跡を守ることも重要です。
今回は遺跡のひとつである「坊主墓」周辺の除草作業を行ないました。

「坊主墓」
島北部を南北に縦断するミシャシ道と東桟橋→カイジ浜間の外周道路の交差点から15mほど西へ向かった北側の茂みの中にあります。
NPOでは半年に1回、定期的に除草作業を行なっています。
この「坊主墓」は、お坊様が島に来るのが珍しかった時代、石垣島からお坊様が焼香に来ていたことに由来するそうです。
さらに、伝承によると西塘様の妾の墓とも母の墓とも云われています。
それは…

1 墓の外枠は野面積みではなく切り石を使用している。
2 外枠の切石の質が他の墓と異なる
3 墓中央部に丸い造作物が安置されている。

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正面より撮影(北向)

坊主墓について以下のような記述があります。
~およそ20年前、知人が沖縄本島から私を訪ねて来た。
その女性が言うには、八重山にある尚真王の妻の墓が草に覆われているので清掃をして欲しいと夢の中で頼まれた。
それで、八重山に来たが、墓は見つからず途方に暮れている。墓探しに協力していただきたいとの依頼であった。
私は、尚真王は赤蜂(オヤケアカハチ)の敵であり、八重山に尚真王の奥方の墓があるとは考えられない。
また、そのような話は聞いたこともないと丁重にお断りをした。
それから4年後、私は史蹟名勝担当主事として、県教育庁文化課に勤務した。
そのとき、西塘についての不思議なことを語る人物に出会った。
その人が言うには、西塘は実は竹富島の人ではなく、粟国島出身の母親の子であった。
彼女は、首里城勤めのグスクンチュ(城人)であったが、尚真王の子を身ごもったので島流しになり、竹富島にたどり着いて西塘を産んだと言うことであった。
《中略》
その墓は、八重山産の粟石の布石を積み上げた個人墓であり、西塘の墓とされる西塘御嶽の本体部分と同じ石材、同じ造りであった。
しかも注目すべきは墓石の中央に球形の石が置かれていることであった。~

(寄稿「西塘と尚真王」玉城憲文氏(玉津博克氏の体験談)/全国竹富島文化協会編『星砂の島第6号』特集 西塘 57頁)

また、故亀井秀一氏は坊主墓について下記のように説明しています。
~昔美崎御嶽の南に坊主の墓というものがあった。
西塘が首里から連れてきた賄女の墓ともいわれているが、実は浜ンガーを掘り当てた屋良原阿主の墓であった。阿主が死んだ際、小さい子供は与那國家の加那筑登之にあずけられた。この幼な子は毎日のように茶びんを持って父の墓参りに出かけた。
村人はこの坊主は今日も墓参りかと称したのが、いつのまにか坊主の墓と呼ばれるようになったといわれている。
阿主は新田家の祖先として、新田家の本墓に合祀されたので、今は坊主の墓のみが残っている。
※ 阿主は鹿児島出身新田家の二男で、若い頃首里王府の船頭役で活躍したが、霊感師の過度で波照間島に遠島申し付けられた。
《中略》
自分の生存中に造ったいわれる墓は、美崎浜から取ったスン石(墨付が出来る白い石)を以って削り合わせた立派なものだったという。~
(亀井秀一著/『竹富島の歴史と民俗』角川書店 440・441頁)

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球形の造作物は、首里王府の証である「宝珠」とも云われています。

諸説があり未だ解明されていない「坊主墓」のルーツ。
墓の形状、球形の造作物について、何かヒントがありましたらご教示下さい。
(TA)

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