八重山毎日新聞論壇(6月20日付)
本日の八重山毎日新聞論壇には、蔵下芳久氏による
竹富観光センター水牛車営業所移転問題についての私見が
掲載されています。
竹富島における水牛車営業所移転問題を独自の視点で捉え、
論理を展開する蔵下芳久氏は、現在石垣島にお住まいの有識者です。
竹富公民館協力費やリゾート問題の取り上げ方について、
島内に住む者としては多少の異論はありますが、
総じて蔵下氏が述べている、「現代における病」が少しづつ
竹富島を蝕んでいることや、竹富島の理念である
「うつぐみの精神」に対してエールを送られている点については、
私たちは真摯に受け止め、答えていかなければなりません。
(ta)
竹富島の水牛車ステーション問題を考える。
蔵下芳久
竹富島にある(有)竹富観光センター(以下竹富観光)が、島のほぼ中央にある竹富小中学校、保育所、まちなみ館、診療所、郵便局と竹富島創建の神を祀った清明御嶽(マイヌオン・始番狂言では「島ぬ元」)の聖域近くに、観光水牛車ステーションを強行移設したことが、うつぐみ(慈しみ)の精神で知られる竹富島の共同体に、不気味な不協和音をもたらしているので、私見を述べたいと思います。
資本の魂
水牛車の移設問題は、うつぐみの精神を大切にしている竹富島に商品・貨幣の論理と資本の魂が入り込んで、伝統的な共同体的人間関係に、複雑怪奇な対応を余儀なくさせています。
『聖書』の「ヨハネ黙示録」が、「彼ら(諸商品のこと)は心を一つにして、おのが能力(ちから)と権威とを獣(貨幣のこと)にあたう」と述べているのは、特殊の商品である資本の利益追求が、あたかも人間に生まれながらにもっている自然的な権利に傾倒して見えることによって、資本の神秘的な性格を隠しています。
つまり、商品・貨幣や資本は、人間がつくり出したものでありながら、人と人の関係をモノとモノの関係に変えるという神秘的な性格を持つがゆえに、人間の目をくらますことができるのです。
それゆえ、個人的には好人物であっても、自らが没落したくなければ、資本家としては「全精神が直接眼前の金もうけに向けられ」(マルクス『資本論』)ざるを得ないのです。
本件の場合は、住民の水牛車ステーション移設に反対する意思表示に対して、竹富観光の経営者が、どうして自分の楽しみ(利潤追求)に、他人が反対するのかがわからなくなっているのは、資本の魂にひざまずいたがゆえに、うつぐみの精神が衰弱した徒花(あだばな)といえなくもありません。
持続的開発の論理
狭い竹富島に水牛車がひしめくことは、生態系をかく乱する要因となり、住民の声を無視した水牛車ステーションの強行移設は、うつぐみの精神の息づく共同体に、回復のできない亀裂をもたらすことが危ぐされます。
竹富観光の所業は、行政手続きを踏んだように見えますが、ありていにいうと、「将来の世代が自らの欲求を充足する能力を損なうことなく、今日の世代の欲求を満たし人類相互の、そして人間と自然との調和を促進する」持続的開発の理念(環境と開発に関する世界委員会報告「地球の未来を守るために」)が欠落しています。
竹富観光が当面の経済収益を守り、ライバル社との生き残りをかけた競争意識で水牛車ステーションを強行移設することは、文科省が認定した重要伝統建造物群保存地区や「竹富島景観形成マニュアル」からの逸脱であり、「営業の自由」とは「似て非なるもの」、「後は野となれ山となれ」式のカラスの勝手主義に過ぎないといえるでしょう。
うつぐみの精神の再建を
チンパンジーの社会では、長老の支持がなければボスになれないが、竹富島の種子取祭の奉納芸能の始番狂言、大長者(ほんじゃ)では長老が重要な役割を果たし、幾歌でもお年寄りには畏敬の念がはらわれ、シマほめ唄の「しきた盆」では「賢くさや うつぐみどぅ勝さりようる」と誇らしげに唄われています。
本土復帰前後の土地買い占め騒動を乗り越えた竹富島では、1986年3月、長野県妻籠宿憲章に学んで「竹富島を生かす島づくりは、優れた文化と美しさの保存がすべてに優先される」という竹富島憲章を採択しました。
ところが、最近あふれるような観光客の入域で、公民館側によるテレビ局への協力金の付加やリゾート問題の急浮上にみられる商品・貨幣の論理の浸透で、人間関係や自然環境の変質は、長老の役割の希薄化にも現われています。
島内外の人々を魅了してやまないうつぐみの精神は、お互いの夢や希望や願いを分かち合い、響きあう関係であり、竹富人には、困難はあっても、この高邁(こうまい)な理想を再建する勇気と知恵が今ほど求められている時はないのです。
くぬ(この)願いどぅ(を)願ゆる
くぬ作法どぅ 手摺(てぃじ)りようる(祈願する)
『命果報ゆんた』
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