「竹富島東部宿泊計画経緯」

 本日(12日)の八重山毎日新聞には、
町並み保存調整委員会元事務局長である、
上勢頭芳徳 喜宝院蒐集館長の投稿が掲載されています。
 竹富島東部宿泊施設計画に至るまでの経緯が述べられて
いますが、竹富島が重伝建地区に選定されるに至った経過
を知る上勢頭芳徳氏から発せられる文章は、この問題を考察
する上で貴重な資料となるでしょう。
(ta)


 昨年末12月28日八重山毎日新聞の竹富島“リゾート”計画の報道。それに続く1月21日の住民説明会の様子が地元2紙と県紙2紙に報道されるや、島民・島出身者・竹富島に関心を寄せる人たちからの大きな反響が寄せられています。なかには島を愛するがゆえに“リゾート”と聞いただけでアレルギー反応を起こしたような書き込みもあります。
 そのような状況の中で、今こそ冷静に歴史的な視野からこの「竹富島東部宿泊施設計画」について考える必要があると思われます。
 そもそも問題の発端は、島の土地が売られていったことによるものですが、復帰前後の猛烈な自然災害に加えて、復帰という心穏やかならざる大きな社会変動の中で土地を売る人があったとしても、そのことを責めることはできません。
 当時島では、まず公共団体の力や、トラスト運動などを通じて土地を買い戻そうと考えていました。それがかなわず上勢頭保氏が売られた土地を買い戻しました。その事実の上に現在の竹富島があります。
 咽喉(のど)に刺さった棘(とげ)ともいえる、この土地問題の火種を抱えたまま、次の世代へ引き継ぐことは出来ません。土地問題の根本は常に経済問題でもあります。島で住み続けるためには土地問題だけでなく産業、教育、医療など、なにより島での生き方そのものを考えなければなりません。
 いつの時代にも問題はありましたが、竹富島ではそれらを知恵と“うつぐみ”の心で克服してきました。100年後の島の方向性が見えてくる論議となることを期待して、以下の略年表を提示させていただきます。
1957年
●外村吉之介倉敷民藝館長初来島。景観と民藝を賞賛。
1964年
●日本民藝協会80人来島。「民藝の島」評価高まる。
1970(昭和45)年
●このころより土地買占め始まる。
1971(昭和46)年
●大干ばつと大台風で農業疲弊。ドルが変動相場制に移行。土地買占め進む。10人の島民発起により竹富島を守る会。民藝関係者らによる古竹富島を守る会。
1972(昭和47)年
●本土復帰。島内外の人たちも加わり竹富島を生かす会。竹富島憲章案。土地買占めは一旦沈静化へ。
1973(昭和48)年
●買い占め企業による開発計画が次々と発表される。島内において誘致運動と反対運動が続く。
1982(昭和57)年
●第5回全国町並みゼミに参加。買い占め企業の1社は悪事が発覚して中止。
1986(昭和61)年
●上勢頭保氏(南西観光)企業に買い占められた土地を買い戻し、国場組と開発協定。竹富島憲章制定。竹富町景観形成地区保存条例制定。町並み保存調整委員会を設置。
1987(昭和62)年
●竹富町町並み審議会において南西観光事業計画を承認。第11回全国町並みゼミ竹富島大会開催。リゾート開発再論議。外村氏らから開発への忠告提言。
1991(平成3)年
●南西観光の計画は沖縄県のトロピカルリゾート構想で認可下りるも、日本債権信用銀行の破綻(はたん)で未着工。コンドイリゾート計画は破綻。
2006(平成18)年
●内閣府美ら島ブランド委員会で星野佳路氏来島。根抵当権が国場組から市中銀行、さらにファンド会社へ売却。
2007(平成19)年
●上勢頭保氏、星野佳路氏と協定を結んでファンド会社より買い戻し。竹富土地保有機構設立。南星観光設立。開発予定地の現状変更申請。測量伐開。調整委員会へ現状説明。八重山毎日新聞で報道(12/28)
2008(平成20)年
●南星観光による住民説明会。新聞各紙で報道(1/23・24・25・2/1)